その二百九十七
僕は磐神武彦。大学四年。
遂に教員試験の一次選考の結果発表の日が迫って来た。いよいよ明日だ。
それほど気にしているとは思っていなかったけれど、大学が夏季休暇に入って、たくさんの人と接する機会が少なくなったせいか、その事ばかりが頭の大半を占めてしまっていた。
ふと我に返ると、彼女の都坂亜希ちゃんのムッとした顔が目の前にある。
「もう、武彦、またぼんやりしていたでしょ?」
口を尖らせて言う亜希ちゃんを見ていると、凄く癒される。
だから、いつもそうしていて欲しい。
そんな事を思ってしまう程、僕は無自覚に追いつめられていたのだ。
「何よ、ニヤけちゃって! 気持ち悪いな……」
どうやら顔に出ていたようで、亜希ちゃんに引かれたみたいだ。
「ごめん。亜希の怒った顔が凄く可愛かったから、つい見とれちゃった……」
バカの上塗り気味な事を言ってしまった。
「な、何言っているのよ、恥ずかしいな……」
そう言いながらも、嬉しそうな亜希ちゃん。いや、それは多分、僕の欲目なのだろう。
今日はデートと言うか、気分転換に二人で出かけているのだが、僕がたびたびボーッとしてしまうので、亜希ちゃんは実はご機嫌斜め気味なのだ。
ようやくそれが収まって来たらしいので、少しだけホッとした。
「武彦、無理してるんじゃないの?」
優しい亜希ちゃんは僕を気遣ってくれた。
「無理してはいないよ。ちょっと明日の事が気になって……」
僕は亜希ちゃんに気遣いに感謝するつもりでそう言ったのだが、
「やっぱり、今日は家で休んだ方が良かったんじゃないの?」
逆に更に気を遣わせてしまったみたいだ。申し訳ない事をした。
結局、亜希ちゃんが帰宅した方がいいと言い出したので、気分転換は切り上げとなり、家路に着いた。
「ごめんね、亜希。今度はもう少し楽しい日にしようね」
僕は亜希ちゃんの家の前でキスをして、自宅に向かおうとした。
「え?」
その時、家の前に二人の女の子が立っているのに気づいた。
僕を見送ろうとした亜希ちゃんも、気づいたようだ。
「ねえ、あれ、もしかして、莉子ちゃんと真子ちゃんじゃない?」
亜希ちゃんは苦笑いして言った。僕も苦笑いした。
莉子ちゃんと真子ちゃん。
姉の夫である憲太郎さんのお姉さんの沙久弥さんの嫁ぎ先の西郷家。
その西郷家の長女である恵さんのお嬢さんが莉子ちゃんと真子ちゃんなのだ。
確か、莉子ちゃんは十歳、真子ちゃんは七歳になったはず。
まさか、二人きりで来たのだろうか? 恵さんの姿がないのだが……。
そんな僕達を見つけて、二人はまさに弾けるような笑顔になり、駆けて来た。
莉子ちゃんはともかく、真子ちゃんはまだ危なっかしい走り方なので、僕は心配になって駆け寄った。
「武彦お兄ちゃん!」
莉子ちゃんがピョンと飛びついて来た。
「わわ!」
僕は莉子ちゃんを抱きかかえるように受け止めた。
「お姉ちゃん、ずるい! 真子もォ!」
真子ちゃんは僕の右脚にしがみついて来た。
僕は助けを求めるように亜希ちゃんを見たが、亜希ちゃんは半目になって、とても救助に来てくれそうもない。
それもそのはず。
莉子ちゃんと真子ちゃんは、亜希ちゃんを敵視しているのだ。
どういう訳か、僕は小さい子に懐かれる傾向にある。
そのせいで、亜希ちゃんには何度か嫌な思いをさせてしまっているのだ。
「莉子ちゃんも真子ちゃんも久しぶりだね。どうしたの? 二人で来たの?」
僕は取り敢えず莉子ちゃんを地面に下ろした。
そうしないと、亜希ちゃんの視線に堪えられなくなりそうだからだ。
「そうだよ。もう莉子は四年生なんだよ、武彦お兄ちゃん。だから、一人でどこにでも行けるんだよ」
上目遣いに僕を見ている莉子ちゃん。どこで覚えたのか、小首を傾げてニコッとしてみせた。
「真子はね、真子はね、一年生なんだよ、武君」
真子ちゃんもお姉ちゃんへの対抗心なのか、間に割り込むようにしてアピールして来た。
「新しい彼女が迎えに来てくれたみたいね、磐神君。じゃあね」
亜希ちゃんは目が笑っていない顔でそう言うと、自分の家に歩き出す。
あああ……。小学生に嫉妬しないでよ、と言いたかったが、言えない。
「ご機嫌よう、亜希さん」
莉子ちゃんんと真子ちゃんは示し合わせたように言った。亜希ちゃんがピクンとしたのがわかった。
だが、振り返らず、そのまま家に入ってしまった。
後でメールしておこう。
僕は莉子ちゃんと真子ちゃんを家に入れて、恵さんに連絡を取ろうと思った。
二人を居間のソファに座らせて、冷蔵庫にあったジュースをコップに注いで出した。
「ねえ、お母さんはここに来た事を知っているの?」
莉子ちゃんに尋ねてみた。すると莉子ちゃんは、
「うん、知ってるよ。だから、安心して、武彦お兄ちゃん」
ところが真子ちゃんは、
「お母さんには内緒なんだよ。だから、知らせちゃダメだよ」
ネタ晴らしをしてしまったようだ。莉子ちゃんはキッとして真子ちゃんを睨みつけた。
どうやら恵さんに内緒で来たのが本当のようだ。まずいぞ、これは。
そう言えば、恵さんの携帯番号とか知らないな。どうしよう?
「お母さんの携帯の番号を教えてくれるかな? 一応無事に着いた事を連絡しないといけないから」
僕は顔が引きつっているのを感じながら、莉子ちゃんに言ったが、
「私、知らない。おうちの電話番号も忘れちゃった」
強か過ぎる返事をした。今からこんな感じだと、将来は「悪女」になりそうで怖い。
「真子も知らない」
お姉ちゃんに睨まれて、自分がどう答えればいいのか悟ったらしい真子ちゃんは泣きそうな顔で言った。
困ったぞ。仕方がないから、沙久弥さんに電話しようか?
そんな事を思っていると、携帯が鳴った。
莉子ちゃんと真子ちゃんがビクッとしたのを見て、ちょっと笑いそうになった。
多分、恵さんからだと思ったのだろう。
携帯を開いて確認すると、沙久弥さんの旦那さんの西郷隆さんからだった。
「お久しぶりです」
すると何故か西郷さんは、
「そっちに莉子と真子が行ってない?」
いきなりその質問を浴びせて来たので、ちょっと面食らったが、
「はい、来てますよ。二人共、怪我もしていませんから、安心してください」
「そうか、よかったよ。書き置きがしてあったので、びっくりしたんだよ」
西郷さんの話によれば、同窓会に出席する恵さんが、実家に莉子ちゃんと真子ちゃんを預けて行ったのだそうだ。
たまたま、非番で家にいた西郷さんが二人の面倒を見ていたのだが、緊急連絡を受けて電話で話している隙にいなくなってしまったそうなのだ。
生憎、沙久弥さんも愛息の隆久君と出かけていたので、パニックになりかけた西郷さんは、あちこちに連絡して、僕にかけて来たのだ。
莉子ちゃんが残した書き置きには、
「ちょっとでかけてきます」
そう書かれているだけで、どこに行くのかは書かれていなかったらしい。
「迎えに行きたいんだけど、これから緊急配備で出かけなければならないんだ。少しだけ、預かっていてくれないかな?」
西郷さんは周囲を憚るような声で言った。
「いいですよ」
僕は笑いを噛み殺して応じた。
「それから、くれぐれもめぐ姉には言わないでね。こってり説教されてしまうから」
「はい」
西郷さん、相当、恵さんが怖いみたいだな。
こうして僕は、少しの間だけれど、莉子ちゃんと真子ちゃんを預かる事になった。
軽く考えていたのを後悔するくらいいろいろあるなんて、その時は思いもしなかったけど。