その二百九十五
僕は磐神武彦。大学四年。
教育実習で出会った我が母校の在学生の多田羅美鈴さん。
彼女の訴えで、教育委員会に呼び出され、かなりの苦痛を味わった。
何とか、多田羅さんとわかり合えないかと思い、彼女と話す事にした。
その場を設けてくれたのは、教育実習で一番お世話になった高木睦美先生と多田羅さんのクラス担任の須芹日美子先生。
だが、その甲斐虚しく、多田羅さんとは何もわかり合う事ができなかった。
僕は高木先生と須芹先生に励まされて、母校をあとにした。
途中、どこかで気分転換をしようかとも思ったが、どこにも寄らずに真っ直ぐ家に帰った。
あまりにも落ち込んでいたので、危うく我が家を通り過ぎてしまうところだった。
ダメだ。こんな状態では、教員試験の一次試験を受けられない。
多田羅さんの思惑通り、僕は教員になれなくなってしまう。
彼女の思惑通りになるのも嫌だが、そんな事で挫折したくはないという気持ちがわいて来た。
「気持ちを切り替えて、試験に臨め。しばらく多田羅との事は忘れろ。教育委員会には、私が話しておくから」
高木先生が別れ際におっしゃってくださった言葉。嬉しくて、泣きそうになった。
多田羅さんとは、もう少し時間を置いてから話すべきだったのかも知れない。
何とか頭の中のモヤモヤを振り払い、気持ちを切り替えようとしてみた。
そして、行く前に会った狭野尊君の言葉を思い出してみた。
「磐神先生の授業を見て、自分も、教員試験を受けようかなって思っているんです」
そう思ってくれた狭野君のためにも、試験に合格しなければ。
後ろ向きな事ばかり考えてしまいそうになる自分に活を入れた。
玄関の鍵を開け、中に入ると、自分の部屋に行く前に風呂に入る事にした。
日本の神話で、黄泉の国から戻ったイザナギの神が黄泉の穢れを祓うために禊をしたという話に倣う訳ではないが、気分転換になると思ったのだ。
多田羅さんの事をイザナミの神に例えるのは、イザナミの神に失礼かもしれないし。
自分の名字が「磐神」などという妙に神々しいものなので、高校生の時、古事記とか日本書紀を読みあさった事がある。
「お前の名前って、間に『神武』が隠れているな」
同級生に言われたのが切っ掛けだ。確かにと思い、歴代天皇の名前を調べた事もあった。
そんな事を懐かしく思い出しながら、シャワーを浴び、半分くらい溜まった湯船に浸かり、半身浴のつもりはないが、身体を沈めた。
外はまだ蒸し暑いので、じっくり浸かる事なく、さっさと上がった。
タオルで身体を拭き、服を着ると、浴室を出て、二階に上がった。
風呂に入ったせいでもないのだろうが、疲れからなのか、ベッドに倒れ込むように眠ってしまった。
「武彦、具合が悪いの?」
母が帰って来て起こしてくれた。外はもう真っ暗だ。部屋の蛍光灯の明かりがいつもより目に沁みる。
「ホントに、どうしたのかと思ったわよ」
母は呆れ顔だ。僕は恥ずかしくなって起き上がり、
「疲れていたのかも」
すると母は、
「途中で亜希ちゃんに呼び止められたのよ」
「え?」
ビクッとしてしまった。何だろうか?
「遅くなってしまったけど、あんたに会いに行こうと思ってコンビニに行ったら、今日は休みだって言われたって。それで、変に思っていたら、偶然、大学のお友達に行き会って、あんたが具合が悪くて帰ったのを知ったって言ってたわよ」
うわあ……。それはまずい……。慌てて携帯を見ると、亜希ちゃんから電話の着信とメールの着信がいくつも入っていた。
「あんたの携帯に連絡しても出ないし、家にかけても出ないから、何事かと思ったんだから」
「ごめん、ずっと寝ていたみたい……」
「母さんはいいから、亜希ちゃんに連絡しなさい。まだそれほど遅い時間でもないし」
母の助言で、僕はすぐに亜希ちゃんに電話をした。母はそれを見届けると、部屋を出て行った。
「武彦、どうしたの? 橘さんに具合が悪くて帰ったって聞いたのよ。あの後、そうなったの?」
亜希ちゃんは僕が橘さん達に嘘を吐いたとは思っていない。僕は迷った挙げ句、全部正直に話した。
誤摩化す事なんてできそうにないと判断したからだ。
亜希ちゃんはしばらく無言だった。怒っているのかも知れない。僕が多田羅さんと話す事を言わなかったので。
「ごめんね、武彦。私、何にも知らなくて」
逆に謝られてしまい、戸惑った。すると亜希ちゃんは、
「武彦の様子が変だったから、コンビニに連絡なしで行ってみたんだけど、まさかそんな事になっているなんて、想像もしなかったわ」
「うん……」
亜希ちゃんの優しさに触れ、僕は泣いていた。声には出さなかったけど。
「高木先生のおっしゃった通りよ。今は彼女の事は忘れて、試験に集中しないと。ね?」
亜希ちゃんの励ましで、僕は随分立ち直れたような気がした。根が単純なんだろうな。
「元気になるおまじないしてあげようか?」
亜希ちゃんの不思議な言葉にキョトンとする。
「ちょっと出て来られる?」
「あ、うん」
僕は通話を一旦切り、階下に降りて、外に出た。
すると亜希ちゃんがこちらに歩いて来るのが見えた。
まだ深夜ではないが、すでに九時を回っているので、犬の遠吠えとか、車のタイヤの音とかしか聞こえない。
「じゃあ、おまじない、かけるから、目を瞑って」
亜希ちゃんは僕に近づきながら言った。僕は何の疑いもなく、
「うん」
そう応じて、目を瞑った。すると、スッと唇に柔らかいものが押し当てられた。その次に唇を分け入って何かが入って来た。
目を開けると、亜希ちゃんがキスをしてくれていた。
「どう? おまじない、効いた?」
亜希ちゃんが恥ずかしそうに尋ねる。僕も顔を火照らせて、
「うん、効いたよ」
そう言って、キスのお返しをした。
ありがとう、亜希ちゃん。これで元気百倍だよ。