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姉ちゃん全集  作者: 神村 律子
大学四年編
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その二百九十四

「磐神先生、まだ教員試験を受けるおつもりなんですか? 図々しいんですね」


 予想していた以上だ。大丈夫だろうか?


 僕は磐神いわがみ武彦たけひこ。大学四年。


 教育実習で出会った母校の生徒、多田羅たたら美鈴みすずさん。


 その多田羅さんとの話し合いをするために母校の応接室で彼女を迎えたのだが、いきなり強烈な攻撃を仕掛けて来た。


「何を言い出すの、多田羅さん!? 貴女は……」


 多田羅さんのクラス担任の須芹すせり日美子ひみこ先生が立ち上がって、多田羅さんを睨みつけた。


 しかし、多田羅さんは須芹先生を見ようともせずに僕を見たままで、


「生徒にキスを強要するような先生だから、当然ですよね。自分では何も悪い事はしていないと思っているのだから」


 更に攻撃の手を緩めない。するとさすがに高木睦美先生が、


「いい加減にしないか、多田羅! 逆恨みで教育委員会の呼び出しを食らった磐神の気持ちになれ!」


 間にあったテーブルをバンと平手で叩いて怒鳴った。さすがに多田羅さんはビクッとしたようだったが、


「逆恨みって、何ですか、高木先生?」


 それでも、まだ不敵な笑みを浮かべている。余裕があるのか、只の虚勢なのかはわからなかったが。


「多田羅さんのお母さんに話を聞いたよ」


 僕は高木先生に目配せしてから、多田羅さんを見て話し始めた。


 お母さんに聞いたと言ったせいか、多田羅さんの顔が一瞬だけ引きつったように見えた。


「何を聞いたんですか?」


 多田羅さんは今度は睨めつけるように僕を見ている。僕は多田羅さんを真っ直ぐに見て、


「君の伯父さんの多田羅亮さんは、昔、交通事故を起こして、相手の人を死なせてしまい、刑務所に服役したって」


 多田羅さんの顔が更に強張るのがわかった。だが、


「へえ、その話、母は話してしまったんですか。何だ、全部知られちゃってるのか……」


 そう言って笑い出した。その笑い顔は、決して自嘲気味でも、苦笑いでもなかった。


「で、それがどうかしたんですか?」

 

 そう、狡猾な笑みだったのだ。多田羅さんはやはり、僕がその話をするのを予測していたようだ。


 当然だろう。お母さんとは毎日顔を合わせる。


 その中で、お母さんから僕に話をした事を知ったのかも知れない。


 いや、あるいはお母さんが僕に話をすると想定していた可能性も考えられる。


 それくらい、彼女は頭が切れるし、用意周到なのだ。


 僕の家に来た時の彼女も、まさしく準備万端だったのだろうから。


「それがどうかしたって、何を言っているの!? 貴女は、その相手が磐神君のお父さんだと知ったから、磐神君を陥れようとして、あんな茶番を演じたのでしょう?」


 須芹先生はソファに座りながら、語気を強めて多田羅さんに言った。


「はあ? 意味がわかりません、須芹先生。伯父さんの事故の相手が磐神先生のお父さんだからって、どうして私が磐神先生を陥れなくちゃならないんですか?」


 須芹先生は多田羅さんの反論に息を呑んでしまった。


「君は、僕の母が弁護士との示談の話を拒否して、伯父さんを刑務所に入れて欲しいと刑事さんに頼んだという話をお父さんから聞いたんだよね?」


 僕は須芹先生にも目配せして、多田羅さんに話した。


 多田羅さんは、僕の母が多田羅さんの伯父さんの実刑を懇願したと思い込んでいる。


 だが、そんな事実はない。母は只、弁護士からの示談金の話を聞かなかっただけで、刑事裁判には一切関わっていない。


 裁判を傍聴すらしていないのだ。


 母にとって、裁判は父を思い出す場でしかなかったので、絶対に行かなかったと言う。


 その当時、母はあらゆる方面にその怒りを発していた。


 自分の実家、父の実家。世の中の全てが敵のような気がしていたのだと聞いた。


「ええ、そうです。先生のお母さんて、随分な人なんですね。顔は綺麗だけど、心は鬼のような人ですよね」


 多田羅さんはニヤリとして言った。だが、その目は酷く悲しそうに見えた。


 だから僕は、母を侮辱した多田羅さんに腹が立たなかった。


 この子は、自分のした事を全部理解している。だが、振り上げた拳を下ろす事ができないのだ。


 退くに退けない。そんな心境なのだと思った。


「だから、そのせいで刑務所に入ってしまった伯父さんが可哀想。だから、私が伯父さんの仇を討ってあげる。そう思ったんだよね?」


 僕は続けた。それでも多田羅さんは僕を蔑むような目で見ていた。


「違いますよ。そんな事は思っていません。磐神先生も酷い人ですね。私にキスを無理矢理したのを誤摩化すために、そんな昔の事を持ち出して、私を陥れたいんですか?」


 その言葉に僕は唖然としてしまった。何だ、この子は? 一体どういうつもりなんだ?


 引っ込みがつかなくなったのではないのか? 


 どうする? 全く考えてもみない展開になって来た。


 多田羅さんは本気で僕を教員にさせないつもりなのか?


「確かに、伯父さんの話を父から聞いた時、可哀想だと思いました。でも、その事を逆恨みして、磐神先生を罠にはめたなんて、あり得ませんよ。私は伯父さんに会った事もないんですから」


 多田羅さんの顔が悪魔に見えた、と言っても、決して大袈裟ではない。


「教育委員会には、もう一度よくお話をさせてもらいます。磐神先生は、いえ、磐神さんは、決して教員にならせてはいけないロクでもない人間なのだと」


 僕ばかりでなく、須芹先生も、高木先生も、何も言い返せない程、多田羅さんの顔は鬼気迫るものだった。


「お話はそれだけでしょうか? 私、忙しいので、失礼致しますね」


 多田羅さんはニコッと笑い、立ち上がって頭を下げると、スッとドアに歩み寄り、


「さようなら、磐神さん」


 僕を見てフッと笑い、ドアを静かに閉め、立ち去ってしまった。


 僕達はしばらく呆然としてしまい、互いに顔を見合わせた。


 多田羅さん。想像以上に強力だ……。この局面を打開する事はできるのだろうか?


 目の前が真っ暗になってしまう気がした。

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