その二百九十三
「今日は大丈夫か?」
朝早く、教育実習の担当をしてくださった高木睦美先生から電話があった。
「はい、大丈夫です。何時ですか?」
内心はドキドキしながらだったが、冷静な口調で尋ねた。
僕は磐神武彦。大学四年。
教育実習後に起こった事件と言うべきか、事故と言うべきか迷う出来事の解決のために高木先生からの連絡を待っていた。
そして、とうとう、その当事者である多田羅美鈴さんと話す時が来た。
都の教育委員会の聴取を受けてから、一週間。
月が変わって七月に入っていた。だが、まだ梅雨は開けておらず、どんよりとした分厚い雲が空を覆い隠している。
何となくだが、今の僕の気持ちを表しているような気がした。
「授業の合間という訳にもいかないだろうから、放課後だ。四時を目安に来て欲しい」
放課後か。他の生徒に見られるのもバツが悪いから、その方がいいか。
「わかりました。多田羅さんもそれで納得しているのですか?」
一番心配な事を確認してみた。そこまで下手に出る必要はないと姉に言われてしまいそうだが。
多田羅さんがなかなか僕と話す事を承知してくれないため、今日まで延び延びになっていたのだが、その代わり、僕も亡き父の事故の事を調べる時間ができた。
いくら僕には当時の記憶がほとんどと言っていい程ないとしても、やはり父がどういう状況で命を落としたのか知るのはつらい事だった。
そして、いくつか、多田羅さんが思い違いをしている事に気づけた。
姉は反対したのだが、僕は多田羅さんのお母さんに多田羅さんには内緒で会い、直接話を聞いた。
自分なりの対策も講じようと思ったからだ。
多田羅さんは頭がいい子だから、僕がどう言っても反論して来るだろう。
だからこそ、話し合う価値があると思った。
彼女の業、そして、僕達磐神家にある業、どちらも解きたいから。
「もちろんだ。私と須芹先生で、説得した結果だけどな」
高木先生の声は溜息混じりだった。きっとご苦労されたのだろう。
「では、三時半頃、先生の所に伺います」
「わかった。頑張れよ、磐神」
「ありがとうございます」
僕は携帯を切り、階下に降りると、母に事情を話した。
「ごめんね、武彦。母さんのせいで」
母は、多田羅さんが僕に敵意を向けて来るのは自分のせいだとまだ思っている。
「違うよ、母さん。母さんは何も悪くないよ。悪いのは僕。多田羅さんにつけ入られるような隙を見せた僕なんだよ」
「武彦……」
母が目に涙を浮かべて、僕を抱きしめてくれた。何だか照れ臭くなった。
そして、いつも通り、僕は彼女の都坂亜希ちゃんを迎えに行き、大学に向かった。
道すがら、亜希ちゃんは何か訊きたそうに僕を見るが、僕は亜希ちゃんに心配をかけたくないので、多田羅さんの話はしない事にした。
いくら亜希ちゃんが僕の彼女で、将来は結婚するかも知れないとしても(言ってて、自分で恥ずかしくなる)、この事では巻き込みたくない。
ひどく嫌な思いをするだろうし、何もいい事がないと思うからだ。
後で知られて責められたら、ひたすら謝るしかない。
僕は当たり障りのない事だけ話した。
そして、僕達は大学に何事もなく到着し、講義を受けた。
今日でよかったと思った。何故なら、講義は亜希ちゃんの方が後まで入っているからだ。
「じゃあね、武彦」
いつもより亜希ちゃんが寂しそうに見えたのは、僕に後ろめたさがあったからだろう。
「うん。また明日」
僕はそのままバイトに行くフリをして、亜希ちゃんと学部棟で別れた。
ああ、何だかすごく罪悪感を覚える。だが、仕方がないんだと自分に言い聞かせた。
ところが、そんな時に限って、駅でばったり橘音子さんと丹木葉泰史君に出会ってしまった。
「あれ、磐神君、もう帰り?」
橘さんが声をかけて来た。僕は苦笑いして、
「うん。ちょっと調子が悪いので、バイトをしないで帰るんだ」
「そうなんだ。亜希ちゃんも心配していたでしょ?」
橘さんのその一言で、僕はギクッとした。それでも何とか、
「いや、亜希には話していないんだ。心配かけたくないから。だから、黙っていて」
嘘を吐いて切り抜けた。ごめん、橘さん、亜希ちゃん。すると何故か橘さんはニコニコして、
「もちろんよ。優しいんだ、磐神君て」
そして、半目で丹木葉君を見た。何だか、嫌な予感。
「な、何だよ、音子?」
妙に慌てる丹木葉君。どうしたんだろう? 橘さんは僕を見て、
「泰史ったら、そういう気遣いゼロなの。磐神君を見習って欲しいなって思ってさ」
「あ、そうなんだ」
僕はまた罪悪感に押し潰されそうになった。ああ、嘘を吐くって、こんなに心が痛むものなんだ……。
そして、二人と別れて、電車のホームに向かった。まだ二時三十分だから、ゆっくり間に合う。
少しホッとして、入って来た電車に乗った。
「あれ?」
僕は気分が悪くなるのを感じた。
自覚していなかったのだが、相当緊張しているのがわかった。
多田羅さんと話す。それがどれほどきつい事なのか、今になって感じているのだ。
怖いのかも知れない。でも、逃げる事はできない。
いつもの駅で降り、いつもとは反対方向に歩く。
ちらほらと、母校の制服を着た生徒達が歩いて来る。
担任をした生徒達もいるような気がして、更にドキドキして来た。
「磐神先生!」
そこへ現れたのは、何とあの狭野尊君。
多田羅さんと付き合う事になった男子だ。
「やあ、久しぶりだね、狭野君」
「お久しぶりです」
狭野君は爽やかな笑顔で挨拶してくれた。多田羅さんは彼には一言も話していないようだ。
「どう、多田羅さんとは順調?」
一応、尋ねてみた。すると狭野君は締まりのない笑顔になって、
「ええ、おかげ様で。みんな、磐神先生のお陰です。ありがとうございました!」
深々とお辞儀をされてしまった。
「そうなんだ」
ちょっと意外だった。多田羅さん、僕との事以外は変わりないんだ。凄いな。
「今日は、学校ですか?」
狭野君が周囲の生徒達に挨拶を返しながら言った。僕は微笑んで、
「そうだよ。高木先生に呼ばれてね。教育実習の成果を教えてもらうんだよ」
「そうなんですか。磐神先生の授業を見て、自分も、教員試験を受けようかなって思っているんです」
狭野君のその言葉にウルッと来そうになった。
「ありがとう、狭野君。嬉しいよ」
「こちらこそ、先生にまた会えて嬉しかったです。お引き止めして申し訳ありませんでした」
「いや、大丈夫だよ」
狭野君は最初の印象と全く変わってしまった。本当にいい子だ。
僕は狭野君と別れ、我が母校に向かった。
校門をくぐる時、携帯で時刻を確認したら、ちょうど三時三十分だった。
僕は携帯を鞄に入れ、玄関に向かった。
「相変わらず、時間に正確ね、武彦君」
出迎えれくれたのは、須芹先生。先生は姉の夫である憲太郎さんの中学時代の同級生なので、僕の事を「武彦君」と呼ぶ。
この前、高木先生がいる時にもそう呼ばれて、高木先生に突っ込まれそうになった。
「須芹先生、武彦君はまずいですよ、ここでは」
僕は周囲の目を気にして小声で告げた。すると須芹先生はクスッと笑って、
「そうね。誤解されちゃうわよね。さ、こっちよ」
僕は溜息を吐き、須芹先生の後ろを歩いた。
通されたのは、全開と同じく、職員室と隣接している応接室。
中に入ると、高木先生が立ったままで待っていた。
「もうすぐ多田羅がここに来る。本当は二人きりで話して欲しかったんだが、また多田羅が何かを捏ち上げようとしたら困るから、私と須芹先生が立ち会う事にした」
「そ、そうですか。ありがとうございます」
そこまで思い至れなかった僕は、高木先生の気遣いに感謝した。
僕達が到着してしばらくして、ドアがノックされた。思わずピクンと身体が動いてしまった。
「どうぞ」
高木先生は僕に目配せして言った。
「失礼します」
多田羅さんが入って来て、会釈をした。僕は多田羅さんを見て、
「久しぶりだね、多田羅さん」
「お久しぶりです、磐神先生」
多田羅さんは、キスの一件などなかったかのように僕を見て微笑んだ。
怖過ぎる。多田羅さん、一体どういう人間なんだろうか?
「まあ、かけて」
高木先生が促し、僕と高木先生が並んでソファに座り、その向かいに多田羅さんと須芹先生が並んで腰掛けた。
口の中がカラカラに渇いているのがわかった。
「磐神先生、まだ教員試験を受けるおつもりなんですか? 図々しいんですね」
いきなり多田羅さんが言い出した。僕も高木先生も、そして須芹先生もギョッとして彼女を見た。
これは壮絶な話し合いになりそうだ。僕は両手をギュッと握りしめ、覚悟を決めた。