その二百九十二(亜希)
待ち切れない。連絡をメールでもらった直後、私は学部棟を飛び出し、正門へと走った。
梅雨の晴れ間のジリジリと照りつける日差しが眩しかったし、暑かったけど、気にならなかった。
私は都坂亜希。大学四年。社会福祉関係に就職したいと思っている。
今、私は最愛の人である磐神武彦君が来るのを待っている。
武君は母校である高校で教育実習を受けた。
そこには、懐かしい先生方がたくさんいらっしゃって、実習に入る前に、武君と伺った。
英語の尼照富美子先生とお話しできたのは、凄く嬉しかった。
だが、そこはまた、武君にとっては、想像もしない試練の場でもあった。
大袈裟のような気もするが、実際、武君は正念場に立たされているような気がする。
武君が受け持った二年一組の生徒である多田羅美鈴さん。
最初は、武君のお姉さんと同じ名前だという事で、ちょっと気になっていただけだったが、それではすまなくなってしまった。
多田羅さんが、武君に無理矢理キスされたと都の教育委員会に訴えたのだ。
全く事実無根で、取り合うのもバカバカしいような話だが、相手は教育委員会だ。
きちんと対処せざるを得ない。
武君が教育委員会に行った後、私は気が気ではなく、講義も何も耳に入って来なかった。
「亜希ちゃん、大丈夫?」
今ではすっかり仲良しになった長石姫子さんが心配そうに声をかけてくれた。
長石さん達も、ある程度、武君に起こった事を知っており、気にかけてくれているのだ。
「それにしても、どういう子なのかしら? 逆恨み以外の何ものでもないわよ、全く」
長石さんは腕組みをして、仁王立ちで息巻いている。
「まあまあ、姫子が怒ったって、どうにもならないんだからさ……」
長石さんの彼である若井建君が長石さんを宥める。
「それはわかってるけど、本当に許せないわ、その子! 一発引っぱたいてあげたいくらいよ!」
それでも、長石さんは収まらないようだ。私もそんな心境だが、それをしたところで、何も事態は好転しないのだ。
「大丈夫?」
そこへ、橘音子さんと彼の丹木葉泰史君が来てくれた。
皆さん、本当に優しい人達。
「ええ、大丈夫」
私は何とか微笑んで、橘さんに応じた。そして、
「もうすぐ武彦が来ると思いますけど、くれぐれも……」
質問攻めにはしないで欲しいと言おうとしたら、
「わかってるって。繊細な磐神君の事だから、いろいろ訊いたら疲れちゃうでしょ? 心配しないで、いつも通りにするから」
長石さんがウィンクをして言ってくれた。若井君も、橘さんも丹木葉君も頷いている。
「ありがとうございます!」
私は深々と頭を下げ、礼を言った。
そして私は一人で正門まで行き、武君が来るのを待った。
しばらくして、武君が歩いて来るのが見えた。
「武彦!」
私は大きく手を振って武君を呼んだ。武君はニコッとして、手を振り返してくれた。
学部棟に行くまで、私達は腕を組んで歩いた。
その間、私は何も言葉にできなかった。
口を開いたら、いろいろと訊いてしまう気がしたからだ。
学部棟に着くと、
「早かったね、磐神君」
長石さんが声をかけた。武君は当たり障りのない事を話して、談笑している。
結果が最悪ではないとそれを見て勝手に思い込もうとしたが、どうなのだろうと不安にもなってしまった。
そして、長石さん達と別れ、二人で遅めの昼食を食べた。
今日は武君が来られないと思っていたから、食堂棟でお蕎麦を食べた。
「取り敢えず、お咎めなしだったよ」
食事を終え、人心地ついていると、武君が不意に切り出した。私はドキッとし、同時にホッとした。
「よかった……」
知らないうちに涙を零していたらしく、武君に心配されてしまった。
「只、多田羅さんとは話をしないといけないんだ」
武君の話を聞き、私は頭に血が上るのを感じた。
「完全に逆恨みじゃないの! 酷過ぎるわ! あの子、武彦の家に行った時から、そんな事を考えていたの?」
「それはわからないけど……。少なくとも、僕ら家族にいい印象は持っていなかっただろうね」
武君は優しく私の手を包み込むようにして握り返してくれた。私は多田羅さんが武君の家に来た時の事を思い返し、
「おばさんと私を妙に誉めていた時も、心の中では舌を出していたのね……。何て子なの」
思わず武君の手を強く握り返していた。ダメだ、また興奮してしまっている……。
「多田羅さんは誤解をしているだけだから、そこまで思わない方がいいよ。話せば、理解し合えると思う」
そう言って、武君は私の手を撫でてくれた。
私はスッと手を引っ込めて、バッグからハンカチを取り出すと、涙を拭い、
「武彦、人が好過ぎるわ。これから先が思いやられそう……」
本当にそう思っている。武君、もう少し警戒心を持たないと……。
「そんな僕だから、亜希にずっとそばにいて欲しいと思っている」
武君のその言葉を聞き、全身に電気が流れたようにビリビリとなった。
「武彦……」
私、また泣いてしまっているようだ。
「まだ、プロポーズはできないけど、改めて言うよ。亜希と結婚したいと思っているから」
「ありがとう、武彦……」
私は今度は気をつけて武君の手を握り返した。
そして、食堂棟を出て、建物の陰でキスをした。
私達は次の講義があるホールに向かった。
途中、武君は携帯に出た。
どうやら相手は、高校で教育実習を担当してくださった高木睦美先生だ。
話は多田羅さんの事のようだ。
「でも、そうするしかないです。話し合って解決できなければ、僕は教員になれません」
武君の言葉にまた電流に撃たれたようになった。
武君、そこまで思い詰めないで! 心の中で叫んだ。
「逃げる訳にはいかないんです。自分のためにも、多田羅さんのためにも」
ああ、でも、そんな武君だからこそ、先生になって欲しい。だから、負けないで、武君!
「ありがとうございます」
武君は高木先生にお礼を言った。
「よろしくお願いします」
武君は通話を終え、私を見た。
「武彦、そこまで思い詰めないで。多田羅さんの事だけで、将来を決めるなんて事したら、ダメだよ」
私は心の中にしまい込もうとしていた言葉をつい言ってしまった。武君は微笑んで、
「大丈夫だよ。そのくらいの意気込みで、多田羅さんと話すって事だから。それに、この一件が片づけられなければ、僕は教師になってはいけない気がするんだ」
「武彦、頑張り過ぎないでね」
私はスッと武君を抱きしめた。周囲にたくさん人がいる場所だったので、武君は顔が真っ赤になっていたが、気にしなかった。
「ありがとう、亜希」
武君も抱きしめ返してくれた。いつでも、私は武君の味方だよ。