その二百九十(姉)
私は力丸美鈴。新米のママだ。
夫の憲太郎との夫婦仲は順調。愛息の憲人の成長も順調。
只、愚弟の武彦の事だけが気がかり。
そんな事を言うと、また、「弟大好きお姉さん」だと思われてしまうだろうが、そうではない。
武彦は実際に人生最大のピンチに遭遇しているのだ。
教育実習で訪れた武彦の母校で受け持った二年一組の生徒である多田羅美鈴さんに、
「無理矢理キスされた」
そんな事を教育委員会に訴えられたのだ。
もちろん、気の弱さなら、世界ランクレベルのあいつにそんな度胸がある訳がない。
それに奴には都坂亜希ちゃんという勿体ない程の彼女がいるのだ。
亜希ちゃんを悲しませるような事を愚弟がするはずがないのだ。
とは言え、相手は教育委員会。情に訴えたところで、相手にもされないだろう。
そんな心配をしていた私は何かしていないとあいつの事ばかり考えてしまいそうなので、憲人を抱いて、近所のスーパーに出かけ、そこで美鈴さんのお母さんの珠枝さんに出会った。
珠枝さんの話で、美鈴さんがどうして武彦の事で嘘を吐いたのか、教えてもらった。
母が言っていた事が的中してしまったのだ。
多田羅という名字が、亡き父の交通事故の相手の名字と同じだったのは、偶然ではなかった。
美鈴さんは、父親の淳さんから、父を事故死させた張本人である多田羅亮の事を歪めて聞かされ、私達の家族を怨んでいたらしいのだ。
まさに逆恨みなのだが……。
「娘を説得して、訴えを取り下げさせます。ですから、どうか、どうか……」
そして、珠枝さんに土下座されてしまった。
私はしばらく呆然としてしまったが、眠っていた憲人が起きて愚図り始めたのでハッと我に返り、
「お顔を上げてください」
珠枝さんを引き起こすようにして立ち上がらせた。周囲の人達がヒソヒソと話している中、私は、
「お話はわかりました。娘さんを怨んだりなんてしません。安心してください」
珠枝さんの手を握って言い、彼女を椅子に座らせた。
「ありがとうございます……」
珠枝さんは目を赤くして私を見ると、またテーブルに額を擦り付けるようにして頭を下げた。
私は憲人をベビーカーから抱き上げてあやしながら、
「とにかく、娘さんの事はお母さんにお任せします。弟の方は、私が話をしますので」
武彦と珠枝さんが直接話したら、あいつは珠枝さんの謝罪に呑まれて、必要以上に譲歩してしまう気がした。
だから、珠枝さんには会わせたくないと思い、咄嗟にそう言ったのだ。
私は珠枝さんを宥めて、店を出た。そしてそこで彼女と別れると、買い物も再開しないで、マンションに戻った。
憲人に授乳して寝かしつけてから、時刻を確認して、憲太郎君に電話した。
ちょうどお昼休みだったからだ。
「どうしたの、美鈴?」
滅多に連絡をしない時間帯に私が電話をかけたので、憲太郎君も声を低くして尋ねて来た。
私は珠枝さんと会った事と、彼女から聞いた話を憲太郎君に伝えた。
「そういう事だったのか。お義母さんの言っていた事が当たっちゃったんだね」
「うん……。当たって欲しくなかったんだけどね」
何だか気が重くなりそうだ。すると憲太郎君は、
「という事は、西郷先輩には話さなくていいんだね?」
西郷先輩とは、憲太郎君のお姉さんの沙久弥さんのご主人だ。
警視庁第一機動隊の所属なので、父の事故の相手の事を調べてもらおうと思っていたのだ。
私は溜息を吐いて、
「そうね。いらない心配をかけたくないから、話さなくていいかも」
「只、後で知られたら、姉貴にたっぷりお説教されるかもしれないのは、承知しておいてよね」
憲太郎君がドキッとする事を言ったので、
「ま、まさか……」
嫌な汗をたんまり掻いてしまった。
憲太郎君との通話を終え、次に愚弟の携帯にかけた。
だが、全然出ない。まだ教育委員会で事情聴取中なのだろうか?
委員の顔ぶれを都庁のホームページで調べたんだけど、結構有名な人達だった。
弁舌が立つ方々のようだから、今頃武彦は泣きそうになっているかも知れないと心配になってしまった。
だが、だからと言って、私が乗り込む訳にはいかないし……。
少し時間を置いて、またかけてみた。だが、それでも出ない。
まだか。そう思って、切り掛けた時、
「ごめん、姉ちゃん。さっきまで都庁舎にいたんだよ……」
やっと出てくれた。何故か泣きそうになってしまったが、何とか気を取り直して、
「さっき、多田羅美鈴さんのお母さんに会ったんだ」
武彦はしばらく何も言わなかった。
「どうした、武彦?」
心配になって声をかけると、
「ああ、ごめん。全く予想していなかった事だから、びっくりしちゃったよ」
「そうだな。姉ちゃんも驚いた」
そう応じてから、珠枝さんから聞いた話をした。
すると武彦はまた黙り込んでしまった。私はちょっとイライラして、
「それより、あんたの方はどうだったの?」
「あ、ええとね……」
武彦の方は、取り立ててまずい事にはなっていないらしい。
むしろ、多田羅さんを処分するという話になりかけたのを止めたそうだ。
武彦らしいと言えばらしいのだが、相変わらず人が好過ぎる。
「多田羅さんともう一度話をしてみようと思っているんだ。それが一番いいと思うから」
武彦はいつになく力強く語った。何だか感動してしまった。
「もちろん、お前の下した判断に姉ちゃんは何も言うつもりはないよ。頑張れよ、武彦」
「うん。ありがとう、姉ちゃん」
ふと気づくと、私は涙を流していた。