その二百八十九
僕は磐神武彦。大学四年。
現在、僕は都庁にある教育委員会に来ている。
教育実習で受け持った二年一組の多田羅美鈴さんが、僕に無理矢理キスをされたと告発したので、委員の皆さんに呼び出されたのだ。
教育実習で指導を担当してくださった高木睦美先生と多田羅さんのクラス担任である須芹日美子先生にもご迷惑をかけてしまい、同行していただいている。
委員の方達の質問は、高木先生に移り、僕と多田羅さんのどちらが本当の事を言っていると思うかと、委員のお一人である川島みどりさんに訊かれた。
高木先生は僕が正しいと思うと答えてくださった。
すると川島さんはその根拠を訊いて来た。当然だろう。
高木先生は僕をチラッと見てから、
「その質問にお答えするには、磐神に許可を得ないといけない個人情報がありますので」
川島さんはその返答に眉を吊り上げ、
「個人情報?」
川島さんの質問にうんざりした顔をしていた他の委員の甲本紀和さんと万屋誠さんも興味を惹かれたように高木先生を見た。
僕はできればその話に触れたくはなかったのだが、どうやらそういう訳にはいかないようだ。
多田羅さんがどうして嘘を吐く必要があるのかという説明をするには、避けては通れない。
「高木先生、かまいません。話してください」
僕は高木先生を見て言った。須芹先生は不安そうな顔で僕と高木先生を交互に見た。
「わかった」
高木先生は僕に頷いてから、委員の皆さんを見て、僕の父の交通事故の話をした。
委員の皆さんの顔が、事故の相手の話に及ぶと、途端に強張った。
「それは確かなのですか?」
川島さんが僕を見た。僕は、
「証拠がある訳ではありません。ですが、多田羅という名字がそれ程多くはないものなので、関係者の可能性があると思っています」
委員の皆さんはヒソヒソと言葉を交わし始めた。思ってもみない展開なのだろう。
「今回の事情聴取は、あくまでも 貴方の人柄を見るためのもので、貴方を罰するのが目的ではありませんでした。ですから、訴えを起こした生徒には何も話を聞いていません」
甲本さんが口を開いた。
「はい」
僕は甲本さんを見た。川島さんも万屋さんも甲本さんを見ている。
「只、むしろ生徒側にある程度の悪意があると思われるのであれば、彼女にも話を訊く必要がありますね」
甲本さんはクラス担任である須芹先生を見て言った。須芹先生は顔を引きつらせて、
「はい。多田羅は成績も優秀で、クラスのリーダー的存在でもあります。彼女がそんな事をする理由が理解できませんでしたが、磐神君との関係が話の通りであるとするならば、合点がゆくのです」
一言一言を噛みしめるように話した。甲本さんはそれに頷き、
「そうですね。只の悪戯では片づけられない事態ですからね」
また委員の皆さんが小声で話すのを見て、僕は、
「あの、よろしいですか?」
思い切って 発言した。川島さんが僕を見て、
「何でしょうか、磐神さん?」
訝しそうな顔で尋ね返して来た。
お前を陥れようとした生徒に事情を訊くと言っているのに何か不満でもあるのかという顔だ。
「現段階で、私には特に処分はないのでしょうか?」
その質問に三人の委員の方は一様にキョトンとした顔になった。
「現段階では処分はありません。むしろ、ええと、多田羅美鈴という女子生徒に何らかの処分を下す可能性の方が高いでしょう」
川島さんは手許にある書類で生徒の名前を確認しながら言った。僕は更に、
「それでしたら、もうこれで決着にしていただく事はできませんか?」
「はあ?」
川島さんだけではなく、甲本さんも万屋さんも声を揃えて言った。
それはそうだろう。僕の提案は、どう考えてもおかしいものなのだから。
「磐神、どういうつもりだ?」
高木先生が小声で訊いて来た。須芹先生も僕をジッと見ている。
僕は高木先生を見て小さく頷いてから、再び委員の皆さんを見て、
「私が何も処分を受けないのであれば、多田羅美鈴にも何も処分を下さないで欲しいのです。彼女の真意を訊き、どう向き合っていくかは、私と彼女の個人的な問題だと思われるからです」
「しかし、それでは多田羅美鈴に反省の機会を与えない事と思いますよ。彼女にはきちんと処分を下さないと、彼女自身のためにならないでしょう?」
万屋さんが僕を見て言った。僕は万屋さんを見て、
「もちろん、そうするしかない場合もあるかも知れません。ですが、それは私と多田羅との話し合いが終わってからでも遅くはないと思います。何しろ、彼女は、成績優秀で人望も厚いのですから」
自分でも驚く程、僕は流暢に話ができていた。
「うーん」
万屋さんは腕組みして甲本さんを見た。甲本さんも腕組みをして考え込んでしまっている。
「貴方は多田羅美鈴に個人的に思い入れがあるのではないですか?」
川島さんは斜に構えた顔で僕を見ていた。僕が多田羅さんに好意を寄せていると思われたのだろうか?
「個人的に思い入れがあるというよりは、彼女の真意を個人的に知りたいので、今、彼女を処分して欲しくないと思っているのです」
「なるほど。多田羅美鈴は問題のある生徒ではない。だから、もう少し話をさせて欲しい。結論はその後に出してもらえないか? そういう事ですね?」
万屋さんがまだ何か言おうとした川島さんを手で制して言ってくれた。
「はい。私との関わりだけが原因で、彼女の学校生活に大きな支障が出るのは、私も望まない事です」
委員の皆さんはもう一度ヒソヒソと話をした。
僕は高木先生と須芹先生を見て、頭を下げた。僕の暴走で話がおかしな方向に行ってしまうかも知れないからだ。
高木先生と須芹先生は微笑んで頷いてくれた。少しだけホッとした。
「磐神さんの言い分は了解しました。まずは貴方と多田羅さんで、じっくり話してみてください。そして、結果を高木先生を通じて私達に伝えてください」
万屋さんが告げた。
「はい」
僕は大きく頷いた。
こうして、あれほど緊張した教育委員による事情聴取は終わった。
「お疲れ、磐神。最後の方は、お前の独壇場だったな」
都庁舎を出た時、高木先生が苦笑いして言った。僕も苦笑いして、
「無我夢中でしたから。多田羅さんの人生を僕のせいで壊すのは嫌だったので」
すると須芹先生が、
「人が好過ぎよ、武彦君」
涙ぐんだ目で言ったので、ドキッとしてしまった。
「え? 武彦君?」
高木先生がそこにすかさず反応したが、
「高木先生、この時間なら、まだ学校に戻れますよ。急ぎましょう」
須芹先生はさり気なく追及をかわし、舗道を歩き出した。
僕は二人の後に続いたが、その時、携帯が震えているのに気づいた。
バイブにしてあったのでずっとわからなかったのだ。
慌ててポケットから取り出して開くと、姉からだった。
一気に嫌な汗が出る。何だろうか?
「ごめん、姉ちゃん。さっきまで都庁舎にいたんだよ……」
ところが、姉の返事は予想の遥か上を行っていた。
「さっき、多田羅美鈴さんのお母さんに会ったんだ」
多田羅さんのお母さん? どういう事?
胃が痛くなりそうだ……。