その二百八十八
結局一睡もできなかった。
こんな状態で教育委員会に行き、まともな応答ができるのだろうか?
ああ……。
僕は磐神武彦。大学四年。
今日は、教育実習中に起こったある出来事の事情聴取を受けるために、教育実習先でお世話になった高木睦美先生と、二年一組のクラス担任の須芹日美子先生と出かける事になっている。
「武彦、落ち着いてね。別に逮捕される訳じゃないんだから」
母は顔を引きつらせて言った。
「わかってるよ。話をするだけだから」
僕同様、母も眠れなかったようだ。会社に連絡し、休ませてもらったらしい。
「本当は一緒に行きたいくらいだけど、いくら何でもそれは無理よね」
母は涙ぐんで言う。
「ありがとう、母さん。気持ちだけ受け取っておくよ」
僕は母がどうしてそこまで思うのか、よくわかっている。
教育委員会に出向く理由。
二年一組の多田羅美鈴さんが、どうやら、亡き父の交通事故の相手と関係があるようなのだ。
母は、事故当時、気持ちが昂っていたため、相手方にかなりきつくなっていたのを後悔しているのだ。
そのせいで、相手に逆恨みされ、僕がその被害に遭ったと考えているのである。
でも、仮にそうだとしても、それは母のせいではない。
そんなの、理不尽もいいところで、悪いのは相手方だ。母には何一つ非はないのだ。
僕は家を出て、待ち合わせ場所である駅へと向かった。
「武彦、おはよう」
彼女の都坂亜希ちゃんが待っていた。
亜希ちゃんも母同様、目を潤ませている。
「おはよう、亜希」
僕はいつも通りに微笑んで挨拶を返した。
「私、何にも力になれないけど、絶対に大丈夫。武彦は悪くない。だから、教育委員会の人達もわかってくれるわ」
亜希ちゃんは僕の両手を包み込むように握って、言ってくれた。
「ありがとう、亜希。その言葉だけで、百万の味方を得た心境だよ」
「武彦……」
亜希ちゃんは一粒涙を零すと、スッと僕を玄関の陰に引き込み、キスをして来た。
「じゃあ、行って来るね」
僕は亜希ちゃんを抱きしめてから、その潤んだ瞳を見つめて告げた。
「うん」
亜希ちゃんは涙を拭って応じた。
僕は振り返らず、そのまま駅へと歩き出した。
もう一度亜希ちゃんを見たら、こっちが泣いてしまいそうだったからだ。
駅に着くと、先生方はまだ来ていなかった。少しホッとし、建物の中に入り、改札の前で待つ事にした。
「おはよう、磐神。顔色が悪いな。眠れなかったのか?」
そこへ高木先生が来た。
「おはようございます。はい、あまり眠れませんでした」
本当は全く眠れなかったんだけど、そんな事を話しても仕方がない。
「あまり深く考えるな。話を聞きたいと言われただけだから」
僕を落ち着かせようとしている高木先生も目が充血していた。
先生も十分な睡眠時間が取れなかったのだろう。申し訳なくなってしまう。
「おはようごございます。私が一番遅かったですね」
その直後に現れた須芹先生も、決して健康そうな顔色をしていなかった。
それだけ、教育委員会からの呼び出しというものが強烈なものなのだと感じ、鼓動が高鳴った。
それから、電車を乗り継いで都庁まで行ったのだが、その行程を全く覚えていないほど、僕は緊張していた。
ふと我に返ると、あの都庁舎が目の前にあったのだ。
「さ、行こうか」
しばらく都庁舎を見上げていた僕を高木先生が促し、中に入った。
その途轍もなく大きな建物は、まるで迷路だった。
高木先生と須芹先生も守衛の人や都庁の職員の方に尋ねながら、教育委員会があるフロアに何とか辿り着いた。
高木先生は指定された部屋のドアの前に立つと、ゴクリと唾を呑み込み、ノックした。
「どうぞ」
中から、無機質と言った表現が一番的確な声が応じた。少なくとも、僕にはそう聞こえた。
「失礼します」
高木先生は須芹先生と僕に目配せし、ドアを押し開いた。
「挨拶はいいですから、どうぞかけてください」
中には横並びの二脚の会議テーブルに三人の委員の方が着いていた。脇には、パイプ椅子に座った職員の人が二人いる。
委員の三人は、皆顔をよく知っている方々だ。
向かって右が、万屋誠さん。名の知れた作家で、教育論の本も出版してる人だ。
強面の顔で、かなり威圧感のある人。
そして、真ん中が、甲本紀和さん。元柔道家。顔は温厚そのものだが、試合の時は鬼の形相になった人だ。
更に向かって左にいるのは、車椅子に座っている川島みどりさん。交通事故で下半身不随になった元教員。現場をよく知っているだけに現役の教師に厳しいと評判らしい。
「はい」
僕達は一礼だけして、目の前に並べられたパイプ椅子に腰を下ろした。
「ええと、時間があまりないので、単刀直入にお伺いしますね」
いきなり口を開いたのは、万屋さん。僕を射るような目で見ている。
「はい」
僕は万屋さんを見て返事をした。万屋さんは眼鏡をかけて手許の書類を見ると、
「貴方が、磐神武彦さんですね?」
「はい」
万屋さんは目を細めて、
「今回、訴えがあった事は事実ですか?」
三人の委員の方の視線が一気に僕に集中するのがわかった。
そればかりではない。脇にいる職員の方、そして高木先生と須芹先生も僕を見ているのがわかった。
「いいえ、事実ではありません」
僕は澱みなく答えた。すると万屋さんは再び書類に目を落とし、
「全て虚偽、という事ですか?」
そう言ってから、また僕を見た。僕は高鳴る心臓が飛び出て来そうな感覚に陥ったが、
「全て虚偽という事ではありません。訴えを起こした生徒とキスをしてしまったのは事実です」
万屋さんは目を見開き、隣の甲本さんを見た。すると甲本さんはそれに頷き、
「何故キスをしてしまったのですか?」
やはりそこを訊いて来るのか。当然だよな。
「自分に隙があったからだと思います。但し、訴えにあったように私からキスを強要した訳ではありません」
段々落ち着いて来たのは何故だろうか? 緊張が振り切れてしまったのだろうか?
「それをどうやって証明しますか?」
次に質問して来たのは、川島さんだ。僕は言葉に詰まった。
僕が強要したのではないと証明する事などできはしない。
できるとすれば、多田羅さん自身の口から、それが事実ではないと証言してもらう以外にないのだ。
「できないのですか?」
川島さんが僕に応答を促す。彼女の顔と声が酷く意地悪く思えたのは、僕の僻みだろうか?
「できません」
僕は川島さんを見て言った。下手に言い繕うより、正直に答える方がいいと思ったからだ。
「そうですか。では、高木睦美さん」
川島さんは視線を高木先生に向けた。
「貴方自身は、公正な立場で、磐神さんと訴えを起こした生徒のどちらが本当の事を言っていると思いますか?」
川島さんの質問に僕はまた緊張し始めた。横目で高木先生を見ると、尋常ではない汗を掻いている。
部屋は冷房が効いており、決して暑くはないのに。
ふと自分の手を見ると、ベタベタになっているのがわかった。
「磐神が正しい事を言っていると思います」
高木先生が答えると、
「その根拠は?」
川島さんが更に尋ねる。甲本さんも万屋さんも、心なしか、ウンザリしているように見えた。
噂によると、誰かを呼びつけた時、必ずしつこく質問をするのが川島さんらしいのだ。
高木先生はチラッと僕を見た。何だろう?
「どうしました?」
川島さんが眉をひそめた。高木先生は、
「その質問にお答えするには、磐神に許可を得ないといけない個人情報がありますので」
その言葉に僕はハッとした。高木先生は父の事故の事を話そうとしているのだ。
「個人情報?」
川島さんは今度は眉を吊り上げた。ウンザリ顔だった甲本さんと万屋さんも身を乗り出して高木先生を見ている。
やっぱり、それを話さないといけないのか。僕は複雑な心境になった。