その二百八十六(姉)
全く、幾つになっても、心配ばかりかけるダメな弟だな……。
私は力丸美鈴。一児の母。
弟の武彦が、教育実習先で多田羅美鈴という、私と同じ名前の女子生徒と出会った。
その子がとんでもない曲者だと知ったのは、武彦の教育実習が終わってからしばらくしてだった。
武彦に無理矢理キスされたと教育委員会に訴えたというのだ。
開いた口が塞がらないとは、まさにこういう事を言うのだろう。
そもそも、彼女自身が、自分から武彦にキスをした事を武彦の担当の高木睦美先生やクラス担任の須芹日美子さんには認めているのに。
一体、何を考えているのだろうか?
同じ「美鈴」として、とても放置しておけない。
「須芹さんの話では、そんな子じゃないそうなんだよなあ」
仕事から帰って来た夫の憲太郎君がネクタイを緩めながら言う。
「あら、憲太郎、いつ須芹さんとその話をしたのかしら?」
私は愛息の憲人の授乳をすませてベビーベッドに寝かしつけながら、半目で彼を見た。
「あ、いや、その、日美子さんから聞いたんじゃないよ。須芹から聞いたんだよ」
憲太郎君は苦笑いをしながら言い訳した。
須芹日美子さんは、旧姓岩村で、憲太郎君とは中学の同級生。
それだけなら、別にどうという事はないのだが、彼女は当時学年のマドンナ的存在だったのだ。
しかも、憲太郎君も日美子さんが気になっていたという。
更に、最近入手した情報では、日美子さんも、当時、憲太郎君に好意を寄せていたのだとか。
只、あまりにも憲太郎君に好意を寄せる女子が多かったので、告白しないで諦めたのだとか。
要するに、二人は両思いだったのだ。
いくら十年近く前の話だとしても、気になってしまう。
日美子さんは、その後、今のご主人の須芹真治さんに告白され、そのままお付き合いして結婚した。
高校が別で、本当によかったと思ったものだ。
しかし、日美子さんが偶然にも、武彦と同じ高校出身だったとは、びっくりしてしまった。
妙な縁を感じ、ちょっと怖い。
「ふうん」
私は半目のままで頷き、憲人にタオルケットをかけ、キッチンに向かった。
「おいおい、いつまでその事を引き摺っているんだよ? 向こうだって、結婚して子供が二人いるんだぞ」
憲太郎君はネクタイをソファに投げ捨て、私を追うようにキッチンに来た。
「最近は、そんな事関係ないらしいから」
ニッとして憲太郎君を見て言う。
「テレビに影響され過ぎだよ。あんな事、現実に起こる訳ないだろ?」
私が今放送中の不倫ドラマの事を持ち出したのを逸早く気づく辺りが怪しいと言えば怪しいが、憲太郎君がそんな男ではない事はよくわかっている。
日美子さんには、何となくあらゆる事で負けているように思えてしまうので、ついそういう皮肉を言ってしまうのだ。
「冗談よ。憲太郎が不倫する訳ないのは、よくわかっているから」
私は後ろから抱きついた。
「ちょっ、美鈴!」
こういう攻撃には滅法弱い憲太郎君。どうだ、必殺巨乳攻撃!
ここだけは、日美子さんに負けていない自信があるぞ!
「美鈴! 武彦君の事を考えるんじゃなかったのか?」
憲太郎君は本気で少し怒りかけていた。まずいと思い、すぐに離れ、
「そうだったね。何だか、嘘みたいな話なので、私自身、どうすればいいか、わからないの」
ダイニングテーブルの椅子に腰掛けて言った。憲太郎君は向かいの椅子に座り、
「もし、お義母さんの言うように、お義父さんの事故の相手の関係者だとすると、武彦君だけの問題ではすまないかも知れないね」
真顔になって言う。私は両手で頬杖を突き、
「あいつは、自分で何とかするって言ってたけど、多分無理だと思うんだよね」
愚弟の実力をよく知っているが故にそんな想像をしてしまう。
「事故当時の事を知る人は他にはいないの?」
憲太郎君は身を乗り出して尋ねて来た。私は頬杖をやめて、
「私もその当時の事はほとんど知らないの。何しろ、事故の相手の人の名前すらずっと知らなかったくらいだから」
「そうか……」
憲太郎君は腕組みして背もたれに寄りかかった。その時、私はある人物に思い当たった。
「そうだ!」
それとほぼ同時に憲太郎君もポンと手を叩いた。
「一人、調べてくれそうな人がいたね」
私達は顔を近づけ合って、その人の名を言った。
「西郷隆さん!」
それは憲太郎君のお姉さんである沙久弥さんのご主人のお名前だ。
西郷さんは警視庁機動捜査隊に所属する警察官。
西郷さんにお願いすれば、事故当時の関係者の事が何かわかるかも知れない。
「只、今は個人情報保護法とか、いろいろあるから、難しいかも知れないね」
いきなり弱気発言の憲太郎君。私はムッとして、
「ダメ元で頼んでみてよ! 沙久弥さんを通してお願いすれば、何とかなるかもよ」
「わかったよ。頼んでみるよ」
憲太郎君はグイッと近づけた私の顔を押し戻して言った。
憲太郎君が頼んでくれた翌日の事。
今日は確か、武彦が都の教育委員会に行く日だ。
一体どうなってしまうのか、とても心配だが、私にはどうする事もできない。
悶々としながら、憲人をベビーカーに乗せ、近所のスーパーに出かけた。
何かしていないと、武彦の事ばかり考えてしまいそうなのだ。
スーパーは寒いくらいに冷房が効いているので、憲人にはタオルを折り畳んで防寒用にかけた。
私自身も寒い程なのだ。電気代が勿体ないと思うが、生鮮食品を守るために仕方がないのかもね。
中でも冷房が強い鮮魚コーナーの前で、魚を吟味していた時、
「もしかして、磐神さんですか?」
四十代くらいの女性に声をかけられた。はて、知り合い?
しかも、旧姓を言われたので、ますます考えてしまう。
私が子供を連れているのを見ても、旧姓を言うという事は、私が誰と結婚したのか知らない人だ。
誰だろう? 微笑みながら、その女性を見るが、全く記憶にない顔だ。
するとその女性はバツが悪そうに笑みを浮かべ、
「すみません、いきなり声をかけてしまって。あの時のお嬢さんですよね? お母さんにそっくりなので、そうではないかと思って……」
「え?」
何だ? どういう事? 全然意味がわからない。
「私、多田羅と申します」
女性の名字を聞き、私は目を見開いた。