その二百八十五
僕は磐神武彦。大学四年。
教育実習で知り合った多田羅美鈴さん。
最初はどういう子なのかよくわからなかったけど、今になって怖い子だとわかった。
自分から僕に無理矢理キスしたのに、教育委員会に僕に無理矢理キスをされたと訴えたというのだ。
怒りを通り越して、呆れてしまった。
そして、母の昔の話。
父の事故の相手の名字が「多田羅」だというのだ。
それも衝撃的だった。もしかして、多田羅さんはその人と関係あるのだろうか?
いろいろ考えているうちに外が明るくなってしまった。
結局、僕は一睡もできなかったのだ。
「おはよう」
キッチンに行くと、目の下に隈を作った母が振り返った。
「おはよう。武彦、寝てないの?」
僕は苦笑いして、
「母さんもじゃないの?」
「まあ、そうだけど……」
母も苦笑いした。そして、すぐにお互い真顔になった。
「昨日の母さんの話、あくまで母さんの考えでしかないから。まだ、そうと決まった訳じゃないよ」
母は小声で言った。僕は頷いて、
「もちろんだよ。今日、高木先生に会って、確かめてみるよ」
「そうして。母さんね、どうしても多田羅さんがそこまで悪い子には思えないの。何かの間違いのような気がして……」
母は涙ぐんでいる。まだ多田羅さんの「演技」に取り込まれているのだろうか?
それとも、僕が多田羅さんを疑い過ぎなのだろうか?
いずれにしても、教育委員会の件は完全な捏ち上げだから、そこだけははっきりさせておかないと。
朝食をすませると、僕は彼女の都坂亜希ちゃんの家に向かった。
いつもより早かったので、亜希ちゃんは慌てて出て来た。
「何、どうしたの? 何かあったの?」
亜希ちゃんは僕を見るなり辺りを窺うようにして訊いて来た。
「歩きながら話そうか」
僕は駅に向かう道すがら、亜希ちゃんに事情を説明した。
「そんな!」
亜希ちゃんは多田羅さんが僕を教育委員会に訴えたのを知り、大声で叫んだ。
周囲を歩いていた人がびっくりして立ち止まったのがわかったが、亜希ちゃんは構わずに、
「どういう人なの、多田羅さんて? 何のつもりなのかしら?」
興奮覚めやらぬという顔で言った。僕は亜希ちゃんを宥めるように肩を抱き寄せ、
「これはあくまで、母さんの考えなんだけどね」
父さんの事故の相手の名字が多田羅だと告げ、その後のその人の境遇を話した。
「例え、多田羅さんがその人の関係者だとしても、武彦達に非はないのだから、そんなの、逆恨みもいいところじゃないの!」
亜希ちゃんのヒートアップは止まらない。僕の方が引いてしまいそうだ。
「まだそうと決まった訳じゃないから。いずれにしても、高木先生と話して、多田羅さんの事、もう少し調べてみるしかないと思うんだ」
僕は亜希ちゃんに囁くように言った。するとすると亜希ちゃんは顔を赤らめて、
「ごめん、武彦。私一人で興奮してしまって……」
「いいんだよ。それだけ亜希が僕の事を心配してくれているって証だから」
僕は裏路地に亜希ちゃんを誘い、彼女を落ち着けるためにキスをした。
「ありがとう、武彦」
亜希ちゃんが目を潤ませて僕を見つめて来る。可愛い、可愛過ぎる!
「こちらこそだよ、亜希」
そして、もう一度キスをし、元の道に戻った。
その日の講義は全く頭に入らなかった。
それはいいとしても、このままでは僕は教員試験にまともに臨めそうにない。
何とか解決しないと、これからの人生を左右してしまいかねないのだ。
僕はバイトを休み、亜希ちゃんと一緒に家の最寄り駅まで帰った。
そして、そこで亜希ちゃんと別れ、高木睦美先生に連絡し、母校に向かった。
「私も一緒に行きたいんだけど、邪魔だよね」
名残惜しそうに帰る亜希ちゃんを見て、
「一緒に来て!」
何度もそう言いそうになってしまった僕である。
そんな弱気な自分を見透かすかのように携帯の着メロが鳴った。
それは姉からだった。
「武彦、どうして姉ちゃんに相談しないんだよ!」
まず第一声はそれだった。
「ごめん、姉ちゃん。でも、これは僕が自力で解決しないといけないんだよ」
すると姉は、
「そうだな。お前が解決しなければいけない問題だ。だけど、困った時はいつでも相談しろよ。お前はたった一人の弟で、私は立った一人の姉なんだからな」
泣いてしまいそうな事を言ってくれた。
「ありがとう、姉ちゃん。もう学校に着くから、切るね」
僕は零れ落ちた涙に驚きながら、携帯の通話を終えた。
「おう。頑張れよ、武彦」
「うん」
姉の声も心なしか、上擦っていた気がしたのは、僕の思い過ごしだろうか?
僕は生徒達がほとんど教室からいなくなったのを確認して、職員室に向かった。
高木先生はすぐに僕に気づいてくれて、隣の応接室に移動した。
僕は時間を取ると迷惑だと思ったので、すぐに母から聞いた話を高木先生に言った。
高木先生は目を見開いて驚いていた。
「そうか。それは偶然とは思えないな。多田羅なんて、そうたくさんある名字じゃないだろうからな」
高木先生は腕組みをして考え込んでいたが、
「ちょっと待っていろ」
そう言うと、応接室から職員室へのドアを開けて、誰かを探し、手招きした。
入って来たのは、多田羅さんのクラスの担任である須芹日美子先生だった。
「お久しぶりね、磐神君」
須芹先生は高木先生がいるからなのか、僕の事を名字で呼んだ。
いつもの僕なら、何だか寂しいと思って、亜希ちゃんに心の中で謝罪しているだろうが、今日はそんな余裕はなかった。
「ご無沙汰しています」
僕は立ち上がって頭を下げた。
そして、三人で座り直すと、高木先生が須芹先生に僕の父の話をした。
須芹先生もびっくりしていたが、
「多田羅さんがその人と親戚関係なのかはわからないですね。彼女がそういう話をした事はないので」
取り敢えず、須芹先生がその事を調べてくれる事になった。
そして、翌日に控えた教育委員会の聴取について、打ち合わせをし、僕は学校を出た。
校庭を出て、家へと歩き始めると、また不安になって来た。
本当に教育委員会は僕の言い分を信じてくれるのだろうか?
もし、このまま試験すら受けられなくなってしまったりしたら、一体どうしたらいいのだろうか?
そんな事を考えながら、歩いていると、
「武彦!」
前から亜希ちゃんが走って来た。そして、
「何よ、もう、この世の終わりみたいな顔して!」
僕の両手を包み込むように握ってくれた。
「ありがとう、亜希」
僕は亜希ちゃんの優しさに救われた気がした。
まだ何も決まっていないのに何を後ろ向きになっていたのだろうか?
恥ずかしい。
前を向いて進むしかないんだ。そう思った。