その二百八十四
あまりにも衝撃的だった。僕は磐神武彦。大学四年。
多田羅美鈴さんが、僕に無理矢理キスをされたと教育委員会に訴えたと教育実習で指導をしてくれた高木睦美先生から連絡をもらった。
しばらく、呆然としてしまい、高木先生に、
「どうした、磐神? 大丈夫か?」
そう言われ、ハッと我に返った程だった。
「あまり気に病むな。委員の皆さんも、多田羅の言葉を真に受けてしまっている訳ではない。事実関係を確認したいだけだそうだから」
高木先生の言葉に少しだけホッとした僕は、
「わかりました。都合は何としても付けます。よろしくお願いします」
そう言って、通話を終え、コンビニに向かった。
「どうしたんですか、磐神先輩?」
バイト仲間で、同じ大学の経済学部の長須根美歌さんに心配されてしまう程、僕はぼんやりしていた。
「いや、何でもないよ。ありがとう、長須根さん」
僕は長須根さんの気遣いが嬉しくて、泣きそうになった。
「磐神君、教育実習で精神的に疲れているんじゃないのか? 顔色も悪いし、帰った方がいいぞ」
店長にまで心配されてしまい、僕はその言葉に甘えて、早退させてもらった。
実際、仕事をできる精神状態ではなかったと思う。
帰り道も、危うく駅とは違う方向に行きそうになったので。
それでも何とか帰宅する事ができた。
母もまだ帰って来ていないので、僕は自分の部屋に行き、ベッドに倒れ込んだ。
そして、そのまま気を失うようにして、眠ってしまったようだ。
「武彦、どうしたの? バイト、休んだの?」
ふと目を覚ますと、部屋の明かりで逆光になった母の顔が目の前にあった。もう外は真っ暗で、ハッとして起き上がり、携帯の時計を見ると、午後九時を過ぎていた。
僕はどうしたものかと思ったが、黙っている訳にもいかず、母に高木先生からの連絡の事を話した。
母は目を見開いて驚いた。そして、今まで多田羅さんとの事を黙っていた事を謝った。
「それはいいんだけど……。でも、多田羅さん、そんな子に見えないのに、どうしたんだろうね?」
母は多田羅さんには善人のイメージしかないから、どうしても信じられないようだ。
「そう言えば、多田羅って名字、どうして覚えがあるのか、思い出したよ、武彦」
急にそんな事を言い出した。
「え?」
何故今その話なの、と思った僕は、キョトンとしてしまった。すると母は、
「それが今回の件と関係があるのかも知れない」
謎めいた事を言った。
「どういう事?」
僕はベッドから立ち上がって尋ねた。母はフウッと溜息を吐き、
「父さんの事故の相手が、多田羅っていう名字だったんだよ」
「ええ!?」
その話は多田羅さんの事以上に衝撃的だった。
僕の父は、僕が三歳になる年に交通事故で死んでしまった。
だから僕は父の事をほとんど覚えていない。
そして多分だが、三つ年上の姉も、父さんの事故の相手の名字は知らないはずだ。
「でもね、父さんの事故の相手の多田羅っていう人は、結婚はしていたけど、子供はいなかったんだよね。それに多田羅美鈴さんの年齢だと、その人の娘だとは思えないし」
母は泣きそうな顔で話を続けた。
「え?」
不思議な事を言われた気がした。母は溢れそうになった涙を指で拭い、
「その人、交通刑務所に服役したんだけど、その前に奥さんと離婚したんだよ」
刑務所……。そうか。父さんを事故で死なせてしまったので、逮捕されて、裁判にかけられたのか……。
「何年かして、出所したって、担当した刑事さんから連絡があってさ。それからしばらくの間、父さんの命日に墓参りしていたらしいんだ」
その話にもびっくりした。何だか信じられない。父さんを結果的に殺してしまった人が父さんの墓参り?
故意ではないとしても、やり切れない。
「向こうも、私達に気を遣ったのか、絶対にかち合わないようにしていたそうだけどね」
母は涙をポロポロと零しながら教えてくれた。
「でも、その後、その人は元の家に戻る事なく、どこかに行ってしまったって聞いたのが最後。刑事さん達も、それから後の事はわからないって言ってた」
そういう事なら、多田羅さんがその人の娘の可能性は低いな。
偶然同じ名字なのだろうか? 明日、高木先生に話をしてみよう。
何かわかるかも知れない。
「多田羅さんとの事が父さんの事故と関係があるかもって、どういう事なの?」
僕は疑問に思った事を尋ねた。母はティッシュで涙を拭って、
「事故当時、母さんも感情が昂っていてさ。相手方の弁護士さんにいろいろと話を持ちかけられたけど、全部突っぱねてしまったんだよ。その事を逆恨みされているのかも知れないと思ったの……」
「そんな事……。当たり前だよ! こっちは、父さんが死んじゃったんだよ! 母さんが相手の話に聞く耳持たなくたって、何も悪くなんかないよ! それで怨まれたりしたら、やり切れないよ!」
僕は急に怒りが込み上げて来て、大声を出してしまった。
「ありがとう、武彦。お前は本当に父さんにそっくりになって来たよ」
母がそう言って僕を抱きしめてくれた。
「母さん……」
母の身体は以前より小さくなった気がしてしまった。
母は震えていた。当時の事を思い出してしまったのだろう。嗚咽がまた大きくなって来た。
多田羅という名字はそんなにある名字じゃない。
恐らく、事故の当事者の親戚か何かだろう。
もし、事故の事で逆恨みしていての行動なら、どういうつもりなのか、問い質したい。
僕は高木先生にこの話をし、どうすべきか考える事にした。
人生でこれ程感情が昂った事はない。生まれて初めて、人を許せなくなりそうな気がして、怖くなった。