その二百八十三
一番気がかりだった教育実習を終え、教員採用試験の一次試験に向かってまた勉強を始めた。
僕は磐神武彦。大学四年。
六月最終週になり、一次試験まであと半月を残すのみとなった。
やるだけの事はやった。
後はどこまでこの長丁場を乗り切っていけるかだ。
不安もあったが、期待もあった。
「お前なら、きっと教員になれるさ。いや、お前のような人間こそ、教員になるべきだと俺は思っている」
教育実習でお世話になった高木睦美先生にそう言われたお陰で、随分自信がついたからだろう。
そして、いつもなら、消極的で後ろ向きな事ばかり考えてしまう僕だが、そうならなかったのは、教育実習を経験して、何らかの手応えを感じたからかも知れない。
生徒達と接しているうちに、僕は、自分が人と接するのが苦手なのではなく、そう思い込んでいただけだとわかって来たのも大きい。
お陰で、大学で知らない学生に声をかけられても、おたおたしたり、緊張したりしなくなった。
「何だか、武彦がどんどん凄い人になっていくのがわかって、ちょっと不安」
帰り道、駅へと行く途中で、彼女の都坂亜希ちゃんに言われた。
「え? そんな事ないよ。相変わらず、僕は亜希に頼りっ放しの男だと思うけど」
僕は苦笑いして応じた。すると亜希ちゃんは、
「それよ、それ。以前は、知らない女の子に話しかけられると、ビクッとして、言葉に詰まっていたのに、最近は誰とでも話せるようになったでしょ? すごく不安なんだけど」
口を尖らせる。可愛過ぎて、抱きしめたくなってしまうが、それはグッと堪え、
「そんな事ないよ。長石さんや、橘さんや、長須根さんと話す時だって、いつも嫌な汗が出ているんだよ」
亜希ちゃんの組んで来た腕をギュッと引き寄せて言う。亜希ちゃんは目を見開き、
「え? そうなの?」
「うん、そうだよ。以前よりは人と話す事が苦手ではなくなったけど、世界中の誰よりも、亜希の事を大切に思っている気持ちに変わりはないよ」
ちょっと臭い台詞だとは思ったけど、女の子はそういうのが嫌いではないと長石さんの彼の若井建君に聞いたので、それを実践してみたのだ。
「武彦……」
亜希ちゃんは目をウルウルさせて僕をジッと見つめて来た。
僕は彼女をスッと脇道に誘い、電柱の陰でキスをした。
亜希ちゃんは感動したのか、涙を流した。ちょっとびっくりした。
「やっぱり、武彦、変わったよ。前より、カッコ良くなった」
亜希ちゃんがキスを返して来た。人が近づく気配がしたので、慌てて離れたけど。
「ありがとう、亜希」
僕も涙腺が決壊寸前。でも、どうにか堪え切った。泣いてもいいのかも知れないけど、この後バイトだからね。
充血した目で行ったりしたら、追及されちゃうし。
微笑み合って、また駅へと歩き始めた。
「じゃあ、また明日ね、武彦」
駅のホームで、亜希ちゃんと別れる。いつも以上に別れを惜しんだ。
どうしてだろう? さっき、キスをしたからだろうか?
いや、それなら、ホームの階段の下でしたこともあるし……。
その時、僕は胸騒ぎがした。何故そんな感情が湧いたのか、不思議に思いながら、バイト先のコンビニに行くために、階段を昇り、その先のホームに向かった。
どうして、胸騒ぎがしたのだろうと思っていたのは、ほんの一瞬だった。
僕は気持ちを切り替え、コンビニの最寄り駅を降り、改札を抜けた。
その時だった。携帯が震えた。バイブにしてあったので、何回か着信があったようだ。
履歴を見ると、全部高木先生からだった。
何だろう? 急にさっきの胸騒ぎを思い出した。
心臓が急に鼓動を速めた。顔が火照り、呼吸が増える。
「申し訳ありません、高木先生。気づくのが遅くて」
僕はまずはお詫びを言い、通話を開始した。
「いや、それはいいんだ。とにかく、今日、連絡が取れてよかったよ。どうしても取れなかったら、お前の家に行こうと思っていたんだ」
「え?」
高木先生が家に来る? 何だろう? そんな緊急の用事ってあるのだろうか?
教育実習の時に何か忘れ物をしたとかなら、もっと早い段階で連絡があったはずだ。
実習を終了して、すでに一週間が経過している。何だろう? 全く、内容の予測がつかない。
「今、大丈夫か?」
高木先生の声は、心なしか、震えているように思えた。僕は思わず唾を呑み込み、
「はい。まだバイトまで時間がありますから」
「そうか。落ち着いて聞いてくれよ」
ますます高木先生の声が震えているように思える。何だ?
「はい」
僕は手に掻いた汗で携帯を落としそうになり、両手で携帯を握った。
高木先生が大きく息を吐くのが聞こえた。
「二年一組の多田羅美鈴が、お前に無理矢理キスをされたと教育委員会に訴えたそうなんだ」
「ええ!?」
携帯を落としそうになった。そんな……。一体どうして?
「その事について、お前に事情を聞きたいと教育委員会から言われた」
高木先生の言葉は遠くから言われているように聞こえた。僕は何も考えられなくなりそうだった。
「俺とクラス担任の須芹先生も同席する事になっている。急で申し訳ないのだが、明後日、都合を付けてくれないか?」
高木先生がそう言ったのを僕は聞き取っていたのか、後で思い出してもわからなかった。
それくらい、打ちのめされていたのだ。
多田羅さん、どういうつもりなんだろう?
何故、こんな事になったのだろう?
教育実習の最終日に、外まで追いかけて来て、手を振ってくれたのは、何だったんだ?
人間不信に陥りそうだった。