その二百八十二
長かったなあ。たった二週間だったけど、人生で一番長い日々のような気がした。
僕は磐神武彦。大学四年。
今日で、教育実習が終わった。受け持ったクラスのみんなに挨拶をし、お世話になった先生、校長先生、教頭先生に挨拶をし、校舎を後にした。
「磐神先生!」
校門を出ようとした時、後ろから声をかけられた。
振り返るまでもなく、誰なのかわかっている。
二年一組の多田羅美鈴さん。
実習期間で、いちばん 僕を振り回した「問題児」だ。
でも、事情を知ってみれば、少しだけ可愛いと思ってしまったのも事実だ。
彼女は、同じクラスの狭野尊君に思いを寄せていた。
だけど、狭野君は多田羅さんに話しかけてくれず、そばに寄ろうとしても、意図的に避けられている気がした。
そこで、狭野君の気持ちがどうなのかを知るために、僕が格好の実験台にされたという事なのだ。
要するに、僕の事は好きでも何でもないのに、キスをしたのだ。
以前にも、彼女の都坂亜希ちゃんの従兄の忍さんの義理の妹である真弥さんに同じような事をされたのをまた思い出した。
あの時とは、ケースが違うと思いたかったんだけどな。
「冷静に考えてみろ。お前がそんなにモテる訳がないだろ?」
多田羅さんの真意を知った姉に痛い所を突かれた。そんなつもりはないんだけど、やっぱりそうだったのかな?
多田羅さんはクラスの男子の憧れの存在で、学年でも人気が高いと聞いていたから、そんな女子に好かれていると思いたかったのだろうか?
「武彦は隙があり過ぎるの。もっと気をつけてよね」
亜希ちゃんの反応は姉とは真逆だった。僕はモテるので心配だというのだ。
「姫ちゃんだって、一時は本気だったし、真弥ちゃんもだし……」
口を尖らせて言う亜希ちゃんが可愛くて、文句を言われているのに嬉しかった僕って、おかしいのだろうか?
中学の同級生だった須佐(旧姓:櫛名田)姫乃さんの事は、何年経っても、亜希ちゃんに言われるとドキッとしてしまう。
だって、亜希ちゃん以外の女の子とキスをしたの、姫乃さんが初めてだったから。
あ……。更にドキッとする事を思い出してしまった。
姉とも、事故とは言え、キスしたんだよな……。記憶から消去したい……。
「多田羅さん、何?」
僕はごく自然に微笑んで応じたつもりだったのだけど、多田羅さんはクスッと笑って、
「そんなに私って、怖いですか?」
そう言われ、嫌な汗が出た。
「そんなつもりはないんだけど……」
僕は顔が引きつるのがわかった。やっぱり、この子、苦手だ。
「先生のお陰で、狭野君と付き合う事になったので、お礼をしたくて」
多田羅さんはニコッとして僕を見た。思わず後退りしてしまった。
「もう、先生、また私が不意打ちのキスをするって思ったんですか? エッチなんだから」
多田羅さんは悪戯っぽく笑った。また嫌な汗が出て、顔が更に引きつった。
「お母様と都坂先輩には後で謝罪に伺います」
多田羅さんは真顔になって言ってくれた。
「うん」
「それから、先生、絶対に試験、合格してくださいね! 来年、待っていますから!」
多田羅さんはそう言うと、手を振りながら校舎へと戻って行った。
僕も手を振り返した。
彼女は本当はいい子なんだろう。そう思う事にした。
だが、それは違っていたのを知るのは、それからしばらく後の事だった。
「おはよう、武彦」
久しぶりに亜希ちゃんと大学に行く。
亜希ちゃんも、僕が大学に行っていない間、社会福祉の関係で、あちこち行っていたようだ。
「寂しかったわ、武彦。今日はバイトお休みなんでしょ? どこかで外食しましょうよ」
亜希ちゃんは腕を絡ませ、ギュウッとあれを押しつけて来た。彼女にそんなつもりはないのはわかっているが、心臓に悪い。
「う、うん」
僕は顔が火照るのを感じながら、返事をした。
「あら、武彦は私なんかより女子高生と遊びたいのかしら?」
亜希ちゃんの目が怖い。顔は笑っているんだけど……。
「そ、そんな事、ある訳ないよ!」
僕は組んでいた腕を解き、亜希ちゃんの肩を抱き寄せた。
「嬉しい、武彦」
亜希ちゃんは周囲に誰もいない事を確認すると、目を閉じた。
僕は躊躇う事なく、亜希ちゃんの形のいい唇にキスをした。
大学も久しぶりだ。
「おはようございます、磐神先輩、都坂先輩」
正門を通り抜けると、早速、経済学部の長須根美歌さんに会った。
「おはよう、長須根さん。久しぶりだね」
僕は亜希ちゃんを気にしながら応じた。
「夏休みとかでしたら、バイト先で先輩と会えますけど、今回は全然会えなかったので、とっても寂しかったです」
事情を知らない人が聞いたら、誤解されそうだけど、亜希ちゃんは長須根さんの亡くなったお兄さんが僕によく似ていたのを知っているから、大丈夫だ。
「おはよう、磐神君、亜希ちゃん」
長石姫子さんと若井建君が来た。
「久しぶりね、磐神君。教育実習、どうだった?」
長石さんは興味津々の顔で訊いて来た。
「可愛い子、いた?」
若井君がまた地雷を踏んだ。途端に長石さんの機嫌が悪くなる。
「あんたみたいなのが、教育者を目指さなくてよかったわ、ホントに」
長石さんの強烈な皮肉に若井君は頭を掻きながら、
「ひでえなあ、姫子は」
僕と亜希ちゃんは思わず顔を見合わせて噴き出した。
その後、丹木葉泰史君と橘音子さんが来たので、みんなでランチをする事にした。
ああ、心が和むな。友達って、いいなって改めて思った。
だが、そんな穏やかな日々は、そう長くは続かないのだった。