その二百八十一
胃に穴が開きそうだ。どうしてこんな事になってしまったのだろう?
僕は磐神武彦。大学四年。教育実習中。
その実習先で出会った多田羅美鈴さん。
名前が我が姉と同じというだけで、若干緊張してしまう存在だったが、現実はそれ以上だった。
彼女は実家に来ただけでなく、その帰りに僕にキスをして来た。
しかも、舌まで入れて来る濃厚なのを……。クラス担任の須芹日美子先生の話では、そんな女子ではないらしいのだけど。
ずっと猫をかぶっていたという事だろうか?
その一件の翌日の月曜日、僕は多田羅さんに好意を寄せていると思われるクラスメートの狭野尊君から衝撃的な事を聞かされた。
「でも、多田羅さんは先生とキスしたって言ってたんだよ」
あまりの事に僕は血の気が引いてしまった。僕を指導してくれている高木睦美先生が間に入っていてくれなければ、そのまま気絶してしまったかも知れない。
「とにかく、多田羅の事は俺に任せろ、磐神。今は授業に専念しろ」
高木先生はそう言って僕の右肩をポンと軽く叩いて廊下を歩いていった。
「ありがとうございます!」
僕は高木先生に頭を下げ、授業がある二年二組の教室に歩を進めた。
懸念していた事は杞憂に終わった。二組の生徒は誰一人として、多田羅さんの事を尋ねて来たりしなかった。
情報はそこまで拡散していないようだ。取越苦労だったので、ホッとした。
「あ、磐神先生!」
廊下を歩いていると、後ろから多田羅さんが以前と変わらない笑顔で手を振って近づいて来た。
「あ、多田羅さん……」
自分の顔が引きつるのがわかった。多田羅さんの後ろには、狭野君が離れて立っているのが見えた。
「ごめんなさい、先生。あの事、つい、狭野君に話しちゃった。許してくれます?」
多田羅さんはいたずらっ子がそうするように上目遣いで僕を見た。
あんな事がなかったら、ドキドキしてしまうくらい、彼女のその視線は強烈だった。
クラスメートや同学年に好意を寄せる男子がたくさんいるのも頷けた。
だが、あんな事があったからこそ、僕には多田羅さんのその視線は計算に基づくものだと感じられた。
だから、ドキドキはしなかった。
「いや、許すも何も、あれは……」
君のいたずらだったんだろうと言おうとしたが、多田羅さんの目が潤んでいたので、言葉を発する事ができなくなった。
「あれは何ですか?」
多田羅さんの目に涙が浮かんで来た。もし、これが演技だとしたら、凄い。名女優になれるだろう。
「いや、何でもないよ。次の授業の準備があるから、ごめんね」
僕は踵を返して廊下を歩き出し、階段を駆け下りた。
多田羅さんは追いかけては来なかったけど。
「磐神先生、ちょっといい?」
職員室に戻ると、須芹先生が声をかけてきた。僕は頷いて先生に近づいた。
「高木先生から聞いたわ。多田羅さん、狭野君に話したんですって?」
須芹先生は辺りを憚るように小声で言った。僕は黙って頷いた。須芹先生は溜息を吐いて、
「どういうつもりなのかしら? 多田羅さん、クラスの誰とも仲が悪い訳ではないのだけれど、狭野君とはほとんど会話をした事がないのよ。それなのに、あの事を狭野君に話すなんて……」
どうやら、須芹先生は狭野君の気持ちに気づいていないようだ。だが、もし僕の考えが本当なら、多田羅さんは何て残酷な事をしたのだろうと思った。
「それはきっと、狭野君が多田羅さんの事を好きだと知っているからだと思いますよ」
「え?」
須芹先生は意外そうな顔をした。あれ? 見当外れなのかな?
「狭野君、僕に多田羅さんと付き合うつもりなのかって訊いて来たんですよ。それって、多田羅さんの事が気になっているっていう事ですよね?」
それでも僕は、思い切って言ってみた。すると須芹先生はハッとなって、
「そういう事だったんだ……。狭野君、絶対に多田羅さんに近づかないので、嫌っているのかと思っていたんだけど……」
そして、クスッと笑った。ちょっと可愛いと思ってしまった。
僕は彼女の都坂亜希ちゃんに心の中で詫びた。
「そう言えば、私の旦那も、そうだったかな? 妙に距離を取っているので、私の事が嫌いなんだと思っていた時があったわ」
須芹先生は同級生のご主人と結婚している。そして、姉の夫の憲太郎さんとは中学が一緒だ。
そのせいで、姉が須芹先生に嫉妬していたのは今は笑い話にできるけど。
須芹先生のご主人も、僕と同じ部類の人だったんだな。そして、狭野君も。
「なるほどね」
須芹先生は妙に納得した顔でニコニコし出した。どういう事?
「磐神先生は多田羅さんが意地悪で狭野君に言ったと思っているんでしょ?」
須芹先生は嬉しそうに僕に訊いて来た。
「はあ、まあ……」
僕はどうして須芹先生がそんな顔をしているのかわからないので、キョトンとしてしまった。
「多田羅さんはね、狭野君の事が好きなのよ。きっとそうよ」
その言葉に僕はああ、と思わず手を叩いてしまった。
「お互い、片思いだと思っているんじゃないの?」
須芹先生は楽しそうだ。僕も少しだけ気持ちが和んだ。
多田羅さん、もしかして、狭野君に行動してもらうためにあんな事をしたのか?
そうだとすれば、強引かもしれないけど、筋は通りそうだ。
そう思う事にして、何とか気持ちを落ち着け、次の授業に臨んだ。
そして、その日の授業を何とか終え、帰宅した。
今日は母は早番で、すでに帰っていた。
「ああ、お帰り、武彦。早かったわね」
階段のところで声をかけられた。
「うん。授業にも慣れて来たから、授業の後のミーティングも早く終わるんだよ」
僕は苦笑いして応じた。すると母は、
「そう言えばさ、昨日来た女の子、多田羅さんて言ったっけ?」
まさか母にその名を口にされるとは思っていなかった僕は、危うく階段を踏み外しそうになった。
「う、うん、そうだけど」
母には何も話していないので、僕は顔が引きつるのを何とか我慢した。
「多田羅って、どこかで聞いた事がある名字なの。ちょっと思い出せないんだけどさ」
母は腕組みをして首を傾げた。
「聞いた事がある?」
僕には全く覚えがない。そんな名字の人、過去に会った事ないと思うんだけど?
その時、僕はその先に待ち受けている事を知る由もなかったのだ。