その二百七十九(姉)
私は力丸美鈴。新米ママ。
何者にも代え難いと思っている愛息の憲人。
そして、その憲人以上に気がかりな我が愚弟の武彦。
あいつの教育実習先に出現した「多田羅美鈴」という私と同じ名前の女子。
一体、どういうつもりで、武彦に近づいて来たのか?
今日、多田羅さんが学校帰りに私のマンションに来る事になっている。
武彦からの連絡だと、多田羅さんのクラス担任である須芹日美子さんが多田羅さんを問い詰めたが、逆に日美子さんが論破されてしまったらしい。
かなりの強敵のようだ。ちょっと怖くなって来た。
(もうすぐ、多田羅さんが来る時間だ)
私は憲人に授乳して、ベッドの寝かしつけ、多田羅さんを迎える準備を始めた。
人生で一番緊張したのは、夫である憲太郎君のお母さんの香弥乃さんと初めてお会いした時だったが、今日はそれを軽く上回る緊張感がある。
武彦の事なのに、どうして私がこんなにドキドキしなくちゃいけないのよ?
後であいつにこってり文句を言ってやろうかな。
そんな事を妄想していると、ドアフォンが鳴った。思わずビクッとした。
「はい!」
慌てて受話器を取り、裏返った声で応じてしまった。
「お電話した多田羅です」
「どうぞ、お入りください」
そう言って、受話器を戻すと、玄関へと急いだ。
「失礼します」
笑顔で入って来たのは、これは確かに男子に人気があるなという容貌の子だった。
長い黒髪をポニーテールにしたおっとりした感じの可愛い子。
武彦や憲太郎君がいたら、
「全然雰囲気が違うね」
あっさりそう言いそうなくらい、名前が同じとは思えない。
「いらっしゃい。道、迷わなかった?」
私も微笑み返して尋ねた。すると多田羅さんは、
「はい。磐神先生にもしっかり道順を訊いて来たので、大丈夫でした」
「ああ、そう……」
多田羅さんに我がマンションへの道順を訊かれた時の武彦の心中を想像し、顔が引きつりそうだ。
「それにしても、初対面で失礼ですが、お姉さん、本当にモデルさんみたいですね! お子さんがいるようには見えないです」
多田羅さんは私の心の中でどんな葛藤が起こっているのかなんて想像もしていないのか、そんな事を言った。
「あ、ありがとう……」
何だか、最初から気圧されている気がする。
「姉ちゃんに任せろ」
そんな事を武彦に言った気がするのを思い出し、嫌な汗が出そうだ。
何とか気を取り直して、多田羅さんをリビングダイニングに通し、ソファに座ってもらった。
「冷たいものでも飲む?」
冷蔵庫に近づきながら言うと、多田羅さんは相変わらずの笑顔で、
「おかまいなく」
「そ、そう?」
私は開きかけた冷蔵庫のドアを閉じ、彼女の向かいに腰を下ろした。
「磐神先生から、私の事をお聞きになっていますよね?」
多田羅さんは笑顔を崩さずに私を見た。私は無理に微笑んで、
「ええ、まあ……」
思わず目を泳がせてしまった。何、この存在感? 圧倒される……。
「この小娘、私の可愛い弟に何してくれるのよ、って感じですか?」
多田羅さんは微笑んだままでずばり私の心の中を指摘して来た。
「こ、小娘なんて思わないけど、随分と大胆な子だなあとは思ったわね」
しかも、「私の可愛い弟」とかいう表現、明らかに私と武彦の関係をよく知っていると思われる。
癪に障る言い方だけど、反論できない。
「そうですか? 好きな人に対しては、あれくらい、普通だと思いますけど?」
多田羅さんは歯を見せて笑い、小首を傾げた。
この感じ、私や、武彦の彼女の都坂亜希ちゃんにはない「武器」かも知れない。
亜希ちゃんを私と同列に扱うのは武彦が同意しないだろうけど。
多分、この子に真っ向勝負を挑んで勝てるのは、経済学部の巨乳ちゃんの長須根美歌さんだけだろう。
あるいは、憲太郎君のお姉さんの沙久弥さんだろうか?
長須根さんも沙久弥さんも、自然体だが、この子は違う。いや、違うというより、自然体なのか、意図的なものなのか、わからない感じなのだ。
「でも、武彦には彼女がいるのよ? それを承知でキスするなんて、どうなのかな?」
日美子さんが論破された事を敢えて私も言ってみた。私と日美子さんの決定的な違いを見せようと思ったからだ。
多田羅さんはクスッと笑って、
「須芹先生と同じ事をおっしゃるんですね。でも、磐神先生は私にキスをされても、拒みませんでした。だから、何も差し支えないと思うのですが?」
やっぱりそう来たか。それを待っていたのよ、多田羅さん。つい、ニヤッとしてしまいそうだ。
「貴女は、武彦が拒めないのを承知の上で、そういう行動に出たんでしょ? それはやっぱりいけない事だと思うけどな」
私の再反論に多田羅さんの顔がほんの一瞬だが強張った気がした。
ここは一気に畳み掛けようと考え、更に続ける。
「貴女は、私と武彦の関係をよく知っているようだから言うんだけど、あの子は優し過ぎる子なの。いや、それは正しくないわね。あの子は人を拒否する事ができない子なの。だから、そこにつけ込んだ貴女は、酷い人だと思うわ」
多田羅さんの笑顔の仮面が外れた。彼女はキッとした目で私を睨みつけている。
「やっと素の表情を見せてくれたわね、多田羅さん。本当の事を教えてくれないかな? どうして貴女は、武彦にキスをしたの? 武彦が好きな訳ではないんでしょ?」
これは私の推測でしかない。武彦から聞いた話と、日美子さんから聞いた話を総合すると、そう思えて来るのだ。
「そんな事ありません! 私、磐神先生の事が大好きなんです! だから、キスしたんです。好きでもない人にキスする程、私、軽い女じゃありません!」
多田羅さんはまさに憤然として立ち上がると、
「失礼します!」
足早に玄関へと歩き、そのまま出て行ってしまった。
少し意外な展開だった私は、しばらく呆然としてしまった。
泣いて謝るかと思ったのだが、あくまでそう来るのか。想像以上に手強そうね。
武彦は、一週間、堪え切れるだろうか? 心配だ……。




