その二百七十八
人生で一番長く感じそうな一週間が始まる。
僕は磐神武彦。大学四年。
教育実習で受け持っている二年一組の生徒である多田羅美鈴さん。
その子が昨日僕の家に遊びに来て、送っていく途中でキスをされた。
それも、濃厚なのを……。ああ、思い出したら、顔が熱くなって来てしまった……。
「先生、大好き!」
そう言われた後、
「じゃあ、また明日、学校でね!」
僕は彼女にどう接すればいいのか、困ってしまった。
そしてその日の夜、姉からの連絡で、多田羅さんが明日の学校帰りに姉に会いに来ると聞いた。
大胆不敵とはこの事だろう。多田羅さんがどんどん怖くなって来た。
「お前は何も言うな。姉ちゃんに任せろ。明日は今まで通りに普通に接すればいい」
姉のアドバイスを受け、少しだけ落ち着く事ができた。
そして、翌日。今まで通り、僕は母の作った弁当を持ち、出勤した。
「あ」
彼女の都坂亜希ちゃんが家の前で待っていた。
「おはよう、武彦」
亜希ちゃんは不安そうな顔をしている。それはそうだろう。僕が受け持っているクラスの女子生徒が、僕にキスをしたんだから。
「おはよう、亜希」
僕は何とか微笑んで応じた。亜希ちゃんは僕の手を両手で包み込むように握ってくれた。
「大丈夫?」
潤んだ目で見つめられ、ドキドキしてしまった。
「大丈夫。以前と同じように接するよ」
「うん」
亜希ちゃんはスッと物陰に僕を誘い、キスをして来た。
「何があっても、私は武彦の味方だから。隠し事はしないでね」
「もちろんだよ」
僕達は手を振りながら、別れた。
そして、学校に到着すると、
「武彦君」
須芹日美子先生に呼び止められた。須芹先生は僕を職員室の隣にある応接室に招き入れ、
「お姉さんから聞いたわ、多田羅さんの事」
須芹先生も相当驚いているようだ。
「私から多田羅さんに話をしてみるから、貴方は何も言わないで」
姉にもそう言われたんだけど、この場合はどうしたらいいのだろうか?
でも、クラス担任である須芹先生の意向を無視する訳にはいかない。
「はい、わかりました」
須芹先生が問い詰めたら、多田羅さんはどう返すだろうか?
まさか、僕に無理矢理キスされたと言うとか……。まさかね。
彼女がそこまで悪い子だとは思いたくない。
只、真意は知りたい。何故あんな事をしたのか。それだけは確認したいと思う。
「但し、貴方も同席してね。多田羅さんの話が事実と食い違う場合は、すぐに言ってちょうだいね」
「あ、はい」
うわあ……。横で聞くのか。それも辛いな……。ますます憂鬱になって来た。
一旦、職員室に行き、多田羅さんが登校するのを待った。
そして、彼女が来たのを確認し、校内放送で呼び出し、応接室で話す事になった。
「おはようございます」
応接室で、須芹先生と待っていると、多田羅さんは先週と変わらない笑顔で入室し、頭を下げた。
「おはよう、多田羅さん。かけて」
須芹先生と僕はソファに並んで座り、多田羅さんは向かいのソファに腰を下ろした。
その間、多田羅さんは微笑んだままだ。それが余計に不気味だった。
「多田羅さん、貴女、昨日、磐神先生のご自宅に伺ったそうね?」
須芹先生は穏やかな口調で言った。しかし、その目は多田羅さんを見据えるように鋭い。
多田羅さんはそんな須芹先生の視線を感じていないのか、微笑んだままだ。むしろ、僕の方がビビってしまっている。
「はい。とっても楽しかったです」
多田羅さんはそう応じると、同意を求めるように僕を見た。ギクッとしてしまった。
「それで、帰りに磐神先生に送ってもらった時、先生にキスしたって本当なの?」
うわ、須芹先生、ストレートな質問だ……。嫌な汗が出てしまう。
「はい、本当です」
多田羅さんは微笑んだままで言った。須芹先生がイラッとしたのがわかった。
「それがどういう事なのか、貴女はわかっているの?」
しかし、多田羅さんは動じる事なく、
「はい。私は磐神先生に恋をしました。好きな人にキスをするのはいけない事でしょうか?」
僕は目を見開いて多田羅さんを見た。須芹先生は更にムッとしたようだ。
「磐神先生には彼女がいるのよ? その事を貴女も知っているのよね?」
「はい、知っています」
多田羅さんは冷静なままだ。須芹先生は身を乗り出して、
「それを知っていながら、磐神先生にキスをしたのはいけない事です。わからないのですか?」
それでも多田羅さんは微笑んだままで、
「それもわかっています。でも、お二人は結婚している訳でも、婚約している訳でもないのですよね? だったら、何も差し支えないと思うのですが?」
須芹先生はとうとう立ち上がった。僕はハッとして先生を見上げた。
「貴女は何を言っているの!?」
須芹先生は激怒している。いつもは穏やかな先生がここまで感情を高ぶらせるなんて驚いてしまった。
「先生こそ、どうしてそんなに怒ってらっしゃるのですか? 私も、磐神先生や都坂さんに叱られるのであれば、甘んじて受けますが、先生にそんな風に言われるのは承服しかねます」
多田羅さんはまるで軽蔑するような目で須芹先生を見上げていた。この子、どういう子なのだろう?
「確かに私は磐神先生にキスをしましたが、磐神先生はそれを拒否されませんでした」
多田羅さんの言葉に僕はビクッとした。須芹先生もハッとして僕を見た。
「もし、彼女がいるのでしたら、そこで磐神先生は私を窘め、叱責するのが普通です。それをされなかったという事は、磐神先生が私を受け入れてくださったという事ではないでしょうか?」
多田羅さんはまた僕に同意を求めるような視線を向けて来た。
「磐神先生、それは本当ですか?」
須芹先生の怒りは急速に鎮まったようだ。先生はまたソファに腰を下ろし、僕を見た。
「はい……」
多田羅さんの言った事に間違いはない。確かにあの時、僕は彼女を「受け入れて」しまったのだ。
「多田羅さん、もう教室に戻っていいわ。但し、この事は他言無用にしてね」
須芹先生はグッタリとしたようにソファにもたれ掛かり、そう言った。
「はい。失礼します」
多田羅さんはまた微笑むと頭を下げ、クルッと踵を返して応接室を出て行ってしまった。
「武彦君、まずいわよ。貴方、どうしてその時、多田羅さんに何も言わなかったの?」
須芹先生は僕から視線を逸らして尋ねて来た。訊いても仕方がないと思っているのだろうか?
「すみません。あまりに突然な事だったので、何も言えませんでした……」
そう言うしかなかった。須芹先生は溜息を吐き、
「それはわかるけど……。それにしても、多田羅さんには驚いたわね……」
そう言って、頭に右手を当て、顔を左右に振った。どうしたらいいのかわからないという事だろうか?
僕も、どうしたらいいのかわからなくなっていた。