その二百七十六
僕は磐神武彦。大学四年。只今、教育実習中。
その実習もあと一週間という日曜日。
衝撃的な事があった。
僕の家に遊びに来た多田羅美鈴さんにキスをされたのだ。
それも、濃厚なのを……。あまりの衝撃に息を忘れそうになった。
「じゃあ、また明日、学校でね!」
そして、多田羅さんはごく普通に去って行った。
僕は家に帰り、出迎えてくれた彼女の都坂亜希ちゃんを見るなり、
「多田羅さんにキスされた……」
ボソッと報告した。すると亜希ちゃんは呆れたように笑って、
「もう、私を嫉妬させようとしてもダメよ。多田羅さんがそんな事する訳ないでしょ?」
全然信用してくれなかった。それでも僕は、
「いや、そんなつもりはないよ。本当なんだ。嘘じゃないんだよ」
僕は亜希ちゃんに詰め寄って言った。亜希ちゃんは僕の顔を見て、
「え? でもさ……」
多田羅さんと僕のどちらを信じようか迷っているらしい。ちょっと悲しいけど、仕方がない。
それほど多田羅さんは亜希ちゃんと仲良くなったのだ。
「おばさんには言わない方がいいね。部屋で話そうか」
亜希ちゃんはそれでも僕の方を信じてくれたらしく、そう言った。
「あ、うん……」
亜希ちゃん以上に多田羅さんにたらし込まれてしまっている我が母には言っても信じてもらえないだろうから、現段階では言わないのが正しい判断だろう。
「母さん、今日はありがとう。ちょっと亜希と話があるから、部屋に行くね」
居間で片付けをしている母に声をかけ、僕は亜希ちゃんと二階に上がった。
「母さん、出かけるから」
母が後ろでそう言うのが聞こえたので、
「うん、わかったよ」
普段の時だったら、亜希ちゃんと二人きりになるので、ドキドキしてしまうところだが、今日はそれどころではなかった。
「どういう事なの? 説明して、武彦」
亜希ちゃんは部屋に入るなり、僕のベッドに腰を下ろして言った。
僕は亜希ちゃんの隣に座り、
「今日は、本来なら、多田羅さんと五人の子が来る訳だったんだ。それなのに彼女が一人で来たので、変に思って訊いたら、『一人で来るって言ったら、承知してくれなかったでしょ』って言われて……」
亜希ちゃんは目を見開いて、
「じゃあ、最初からそういうつもりって事? 私やおばさんをいっぱい誉めてくれたのも、信用させるためなの?」
「そこまではどうかわからないけどさ」
僕は腕組みして言った。亜希ちゃんはフウッと溜息を吐いて、
「全くもう、今の高校生って、どこまでませてるのよ……」
そうは言っても、僕達もそれほど大人って訳ではないからな……。それを言っても始まらないけど。
「で、キスされたって、どれくらいのキスなの?」
亜希ちゃんはグッと顔を近づけて尋ねて来た。僕はビクッとしてしまったが、
「それがその、舌を入れて来られて……」
「ええ!?」
亜希ちゃんの声はかなり大きかった。母はキッチンで洗い物をしているのか、聞こえなかったようでホッとした。
亜希ちゃんも自分の声にハッとして、
「ご、ごめん……。武彦は悪くないのはわかっているんだけど、そこまでされるって、その……」
僕は苦笑いして、
「確かにそうだよね。僕に隙があった。あるいは多田羅さんを受け入れてしまったって考えられても、仕方ないよね」
すると亜希ちゃんはバツが悪そうな顔になった。
「だからさ、武彦が悪くないのはわかってるよ。でも、彼女としては、ええとさ……」
今度は顔が赤くなっていく亜希ちゃん。多田羅さんにライバル意識を持っている自分が恥ずかしいのかも知れないけど、それは当たり前の反応だと思うし、そうでなければ、僕は悲しい。
「うん、わかってるよ。でも、ごめん、亜希。僕が油断していたのは事実だよ。多田羅さんの様子がおかしいのに気づいていながら、その状況でそれを想定できなかったって事は、明らかに僕のミスだから」
「武彦……」
亜希ちゃんは潤んだ目で僕を見つめている。僕は意を決して顔を更に近づけた。ところが、
「ダメ! ちょっと階下に行こうか」
「え?」
亜希ちゃんにキスを拒否されて、僕は愕然としてしまった。
「出かけるわね、武彦」
ちょうど母が玄関を出るところだった。あれ、いつもよりお洒落しているって事は、日高建史さんと会うのかな?
「行ってらっしゃい」
僕と亜希ちゃんは声を揃えて言った。母は照れ臭そうに微笑んで、玄関を出た。
「さ、武彦」
亜希ちゃんは僕を洗面所に連れて行った。何をするつもりだろうか?
「歯を磨いて、口の中をよく濯いでよ。でなきゃ、キスさせないんだから」
また恥ずかしそうに言う亜希ちゃん。そういう事か。よかった、もう二度とキスさせてくれないのかと思ったよ。
「亜希に見られていると、何だか恥ずかしいな」
僕はもじもじしながら歯を磨き、洗浄液で口の中を濯いだ。
「準備完了ね」
亜希ちゃんも洗浄液で口を濯いだ。
「う……」
いきなりキスして来られたので、また何もできない僕。
亜希ちゃんの舌が口の中に入って来て、僕の舌と絡み合う。
洗浄液がお互いの口の中に残っているので、いつになくいい香りが鼻腔をくすぐった。
「これに懲りて、無防備なのはやめてよね」
亜希ちゃんはもう一度買軽めのキスをして言った。
「うん、わかったよ」
それにしても、明日から、一体どんな顔をして多田羅さんと会えばいいのだろうか?
しばらくして、亜希ちゃんを送り出し、部屋に戻った。その時、机の上に置きっ放しにしていた携帯が着信を知らせる緑の光を発しているのに気づいた。
画面を見ると、姉からだった。
「ごめん、姉ちゃん。今、亜希ちゃんを送っていたところだったんだ」
慌てて言い訳混じりに電話をすると、
「例の美鈴さんが来たんだって? 母さんから連絡があったぞ」
姉は怒っていなかったので、ホッとしたが、
「母さんに『お前と違って、お淑やかでいい子だったわ』って言われて、ちょっとムカついた」
母さん、そんな事言ったんだ……。
そう言えば、姉は須芹日美子先生のお宅に行っていたんだっけ。
「お前がうまく逃げたお陰で、姉ちゃんは大変だったんだぞ」
早速、愚痴が始まり、タップリ聞かされてしまった。
多田羅さんの事を言おうか迷っていると、
「母さんがさ、多田羅さんにどうしても教えて欲しいって言われて、多田羅さんに私の携帯番号を教えたらしいんだよ。その子、どういう子なのか、ちょっと予備知識くれないか?」
姉から話を振られたので、思い切って全部話した。姉はしばらく黙ったままだったが、
「お前、相変わらず、女を引きつけまくっているな」
人を女たらしみたいに言わないで欲しいよ。
「わかった。気をつけるよ。煽てられて、たらし込まれないようにするよ」
さて、世紀の「美鈴対決」。見たいような、見たくないような……。
怖過ぎるな。