その二百七十五
僕は磐神武彦。大学四年。未だかつてないピンチなのか? それとも只の思い過ごしなのか?
「最初から来るつもりだったのは、私だけです」
教育実習で訪れている母校の二年一組の女子生徒である多田羅美鈴さん。
姉と同じ名前だというだけでも緊張してしまう相手なのに、突然そんな事を言われて、余計パニックになりそうだ。
「ど、どういう事?」
僕は引きつった顔で無理をして笑い、尋ねた。すると多田羅さんは靴を揃えて僕の顔を見てニッコリ笑い、
「だって、私一人だったら、先生、絶対に承知してくれなかったでしょ?」
その言葉とゾッとするような笑みを浮かべた顔に僕は戦慄してしまった。考え過ぎだろうか?
以前に、彼女の都坂亜希ちゃんの従兄である忍さんの義理の妹である真弥さんに迫られた事を思い出した。
多田羅さんが真弥さんとちょっとダブる。
「どうしたの、武彦?」
いつまで経っても僕が多田羅さんを居間に通さないので、亜希ちゃんが玄関に顔を出した。
「あ、磐神先生の彼女さんですね? 私、先生に教わっている二年一組の多田羅美鈴です。どうぞよろしくお願いします」
多田羅さんは僕に見せたあの小悪魔的とも言うべき顔ではなく、純情可憐な女子という顔で亜希ちゃんに挨拶し、深々と頭を下げた。
「あ、私、都坂亜希です。どうぞよろしく」
亜希ちゃんも慌てて頭を下げた。多田羅さん、もしかして、とっても強かなの?
「うわあ、磐神先生、想像以上ですよ! もの凄い美人ですね、彼女さん!」
多田羅さんは僕にはオーバーアクションとしか思えない動きで言った。目を見開き、両手を大きく動かして、テレビでよく見かける女性タレントのようだった。
「やだ、大袈裟よ、多田羅さん」
亜希ちゃんは照れ臭そうに否定し、僕を見て微笑む。多田羅さんに好印象を持ったようだ。
これは凄いな……。多田羅さん、本当はどういう子なのだろうか?
亜希ちゃんがあっさりたらし込まれた(この言葉は適切ではないかも知れないけど)ので、我が母はもっと簡単にたらし込まれた。
「うわあ、先生のお母様も綺麗な方ですね! びっくりしました。お姉様がご実家にお帰りなのかと思いました」
他の誰かが言ったのなら、白々しく聞こえてしまうのだろうが、多田羅さんの天賦の才なのか、母は完全に真に受けてしまったようだ。
「お姉さんだなんて……。多田羅さん、おばさんをあまり煽てないでね」
母は顔を赤らめて嬉しそうに言った。そして、
「そう言えば、多田羅さん、娘と同じ名前なんですって?」
ああ、そこに触れちゃうのか、母さん……。
「はい。凄く光栄です」
どこまでもうまい返しをする多田羅さん。段々怖くなって来た。
「ウチの娘は、もう少しお淑やかだとよかったんだけど。多田羅さんのご両親が羨ましいわ」
母まで悪乗りしている。姉が聞いたら、さぞかしショックを受けるだろう。
「とんでもないです。磐神先生のお姉様に比べれば、私なんて……」
多田羅さんは微笑んで謙遜している。亜希ちゃんを見ると、
「凄くいい子ね。安心したわ」
小声で言われた。ああ……。
それからしばらく、居間で三人は様々な話で盛り上がり、僕は完全に置いてけぼりにされてしまった。
多田羅さんは一体今日は何のために僕の家に来たのか、わからなくなった。
しばらくして、母と亜希ちゃんが作った昼食を皆で食べ、食後もまた歳の離れた女子会が始まった。
居たたまれなくなった僕がトイレに行くフリをして中座しようとした時、
「ああ、もうこんな時間! 私、帰りますね」
多田羅さんがサッと立ち上がった。母がハッとして、
「ええ? まだいいでしょ、美鈴さん? 時間ないの?」
すでに「珠世さん」「美鈴さん」「亜希さん」のファーストネームで呼び合う程仲良くなってしまった三人。
「いえ、あまり長居をしては申し訳ありませんので、お暇します。今日は本当にご馳走様でした」
多田羅さんはまた深々とお辞儀をした。
「ああ、いえ、大したお構いもできませんで」
母が頭を下げたので、僕と亜希ちゃんも慌てて頭を下げた。
そして、多田羅さんは帰る事になった。
「ええと、先生?」
玄関で、モジモジしながら僕を見る多田羅さん。
「何?」
僕は警戒しながら尋ねた。すると多田羅さんは、
「帰り道に自信がないので、私がわかるところまで送っていただけませんか?」
「え?」
僕は反射的に亜希ちゃんを見た。亜希ちゃんは呆れたような顔で、
「もう、いちいち私を見ないでよ。送ってあげなさいよ」
「ありがとうございます、亜希さん」
多田羅さんは笑顔で亜希ちゃんを見た。
こうして、僕は一人で多田羅さんを送る事になった。ああ……。
「先生、そんなに私って怖いですか?」
家が見えなくなった頃、多田羅さんが腕を組んで来て言った。僕は振り解く事ができず、
「あ、いや、その……」
只、狼狽えてしまった。そんな状態につけ込まれたのか、多田羅さんがグイッと僕を路地裏に引きずり込んだ。
「先生、大好き」
いきなりだった。いきなり抱きつかれ、キスされた。しかも、かなり濃厚な奴。舌が唇を分け入って来た。
その間中ずっと、僕は何もできずにいた。
「じゃあ、また明日、学校でね!」
笑顔で手を振って駆け去る多田羅さんを僕は呆然として見送っていた。