その二百七十四
僕は磐神武彦。大学四年。
もうすぐ教育実習が終了する。そのせいなのか、受け持った二年一組の多田羅美鈴さんに、
「今度の日曜日に先生のお宅にお邪魔してもいいですか? 女子達五人で伺いたいんですけど?」
そんな衝撃的な事を言われた。クラス担任の須芹日美子先生に相談すると、
「多感な年頃だから、いろいろ難しいけれど、五人でだったら、あまり問題でもないでしょう。その子達は武彦君に好意を持っているのよ。承諾してあげて」
思ってもみない助言をいただいた。
「でも、その日は須芹先生のお宅に伺う予定ですよね?」
そちらはどうしたらいいのだろうかと思って尋ねると、
「私の方は、武彦君が教員試験に合格して、我が校に来てくれれば、いつでも招待できるんだから、多田羅さん達の方を優先して」
「そうですか」
僕はきっと顔を引きつらせていたのだと思う。
「そんな嫌なの?」
クスクス笑いながら、須芹先生に突っ込まれてしまった。
「いえ、そういう訳ではないんですけど、何となく怖くて……」
「怖い事ないでしょ? むしろ、断わったりした方が怖い事になると思うけど?」
須芹先生にそんな事を言われたせいで、僕はすっかり萎縮してしまい、その日の授業はオロオロし通しだった。
「磐神先生」
授業が終わって廊下に出た時、多田羅さんに声をかけられた。またしてもギクッとしてしまう僕。
「あの話、OKですか?」
多田羅さんは笑いを噛み殺しながら僕を見ている。僕は頭を掻き、
「須芹先生の承諾も得られたから、かまわないよ」
「やった!」
凄く嬉しそうにはしゃぐ多田羅さんを見て、胸が高鳴ってしまった。
「あ、それから……」
僕が行こうとすると、多田羅さんがまた声をかけて来た。
「何?」
今度は冷静に応対できたのでホッとする。
「彼女さんもお近くなんですよね? 是非、お会いしたいんですけど?」
「え?」
更に胸の鼓動が高鳴ってしまう。
どこで情報を入手したのか、僕の彼女の都坂亜希ちゃんの住んでいる場所まで知っているらしいのだ。
同じ高校なのだから、図書館で名簿を調べればわかるのだろうけど……。
自己紹介の時、亜希ちゃんの話をしてしまったのは、本当に失敗だったなあ。
ダメとは言えないので、承諾した。後で亜希ちゃんに言わないと。
それから、姉にも話をしておかないと、激怒されるな。
須芹家への訪問は延期なのかと思ったら、姉だけ来て欲しいという話になってしまったから。
須芹先生からも連絡するらしいけど、僕からも伝えて欲しいと言われてしまったんだよな。
憂鬱だなあ。
帰宅するとすぐに姉に連絡して、事情を説明すると、
「ふざけるな! 嘘も大概にしろ!」
いきなり切れられてしまった。電話の向こうでびっくりしたのか、甥の憲人が泣き出すのが聞こえた。
姉はそれに驚いたのか、通話を切ってしまった。
まあ、ネチネチ嫌味を言われなかっただけよかった。
須芹先生にもすぐ連絡し、姉に怒鳴られた事を伝えた。しかし、須芹先生は全く怖じ気づいた様子はなく、
「そうなの。ごめんなさいね。私が連絡すればすんだ話だったわね」
僕に気を遣ってそう言ってくれたので、
「いえ、姉の事ですから、僕から連絡がなければ、それはそれで怒るのでしょうから、仕方ないですよ」
「仲がいいのね、美鈴さんと武彦君て」
意外な事を言われて、僕はびっくりしてしまった。
「私ね、きょうだいがいないから、あなた達の事がとても羨ましいの」
「そうなんですか」
須芹先生は一人っ子だったので、ご主人の真治さんが五人兄弟なのも羨ましかったそうだ。
「主人は長男で、下に弟が四人なの」
須芹先生は何故か嬉しそうに言う。弟が四人? それはそれで大変そうだな。
「美鈴さんには私からよくお詫びしておくから、心配しないでね」
最後にまた気を遣われてしまい、僕は恐縮して通話を終えた。
それから、亜希ちゃんに連絡した。
「多田羅さんが言わなかったとしても、私は呼んでくれたよね、武彦?」
今日は心臓に悪い事ばかり言われて、気絶しそうだ。
「もちろんだよ」
僕はすぐさま応じた。危なかったな……。
そして、日曜日。姉は一人で須芹家に行く事についてブチブチ文句を言って来た。
だが、須芹先生からの断ってのお願いなので、断われなかったようだ。
姉は今でも、夫の憲太郎さんと須芹先生が中学時代に付き合っていたのではないかと疑っている。
あまりいつまでもその事を言うようであれば、母に言おうと思っているが、須性先生と会えば、誤解なのだと気づくだろう。
「おはようございます」
多田羅さん達が来る一時間前に亜希ちゃんが来た。
事情を知った母まで休みを取ってしまった程だ。
「おはよう、亜希ちゃん。せっかくの休みに悪いわね」
母が苦笑いして言うと、亜希ちゃんは微笑んで、
「大丈夫です。私も武君の受け持っている生徒の皆さんに会いたかったですから」
「そうなの」
母と亜希ちゃんは、キッチンで紅茶とケーキの用意をしている。僕は玄関を掃除したり、居間の片付けをした。
そして、予定時間の五分前にドアフォンが鳴った。
「どうぞ」
僕は玄関のドアを開いて笑顔で迎えた。あれ? 不思議な事にそこにいたのは、多田羅さん一人だった。
「おはようございます、磐神先生」
多田羅さんは私服だった。膝上くらいの丈の淡いピンクのワンピースだ。
凄く似合っている気がした。
「あ、ごめん、どうぞ」
僕はハッとして、多田羅さんを迎え入れた。
「他の子達はどうしたの?」
僕は上がり框に片足をかけながら尋ねた。多田羅さんはドアを閉めて振り返ると、
「いえ、誰も来ません」
「都合が悪くなったの?」
僕は靴を揃えて言った。多田羅さんも靴を揃えて、
「最初から来るつもりだったのは、私だけです」
「ええ!?」
更に衝撃的な言葉。どういう事だ?
何だか、すごく嫌な予感がしてしまった。