その二百六十九
僕は磐神武彦。大学四年。
最大の目標である教員への第一歩の教育実習が始まった。
自己紹介で舞い上がってしまった僕は、自分が何を言ったのか記憶が飛んでしまった。
後で担当の高木睦美先生に訊いたら、彼女の都坂亜希ちゃんの事をあれこれ話してしまったらしい。
僕は家に帰ってから、時間を見計らって、亜希ちゃんに電話した。
「お疲れ様、武彦」
亜希ちゃんは電話に出るなり、労ってくれた。
「ありがとう」
何だか、非常に言い出しにくい状態になってしまったが、それでも言わない訳にはいかないので、僕は事情を説明し、亜希ちゃんに謝罪した。
「どうして謝るの、武彦? 私はとっても嬉しいよ。だって、武彦が私の事を話したのは、それだけ私の事を大切に思ってくれているからでしょ?」
亜希ちゃんの優しい言葉にまた涙ぐんでしまう。
「ありがとう、亜希。僕、余計な事を言ってしまったと思って、ずっと気に病んでいたんだ」
「そうなの? そんな事、全然気にしないで。どんどん言ってよ。その方が嬉しいから」
亜希ちゃんはそう言ってくれたけど、これ以上彼女の話をしたら、それはそれでおかしな人だと思われそうなので、二日目は記憶を飛ばさないように注意しようと思った。
そして、翌日。また、母の手作り弁当を持ち、母校を目指す。
大学に通う時より早く出ている。高校に通っていた時よりも早い。
生徒達より早く到着していないと、落ち着かない自分がいた。
職員室で、高木先生からレクチャーを受け、今日の予定を聞く。
主なカリキュラムは第一日目と同じく、授業参観。
何人かの先生の授業の進め方を見て、勉強させていただくのだ。
三クラスを巡り、今回は出席を取るのを任された。
最初のクラスは、二年一組。皆、興味津々という眼差しで僕を見ているのがわかる。
昨日の今日なので、クスクス笑われているのも感じ取れた。
顔が火照って来そうだ。
出席簿を見ながら、顔と名前を一致させようと思い、一人一人確認しながら、読み上げた。
そして、クラス全体の中程までいった時、思わず二度見をしてしまう名前を見つけた。
「多田羅美鈴さん……」
僕は姉と同じ名前の女子生徒をジッと見てしまった。しかも、それをその子に気づかれたようだ。
微笑まれてしまった。僕は顔を引きつらせてしまったと思う。
まさか、ここに来て、姉と同じ名前の女子と出くわすなんて……。
今まで一度も会った事がなかったのになあ……。ああ、鼓動が速くなって来た。
姉とは違って、長い黒髪をポニーテールにしたおっとりした感じの可愛い子だ。
ああ、ごめん、亜希ちゃん……。
その後はまた教室の後ろに行き、先生の授業を見学した。
気のせいか、多田羅さんが何度か僕の事を見ていたような……。そんな事はないか。
それから、別の視線にも気づいた。
こちらは男子だ。名前は狭野 尊君。こちらは、亡き父と読みは違うけど、同じ字を書くので、ちょっと印象に残っている。
彼は恐らく気のせいだろうけど、僕を睨みつけているように思えてしまった。
自意識過剰かな……。会って二日目で、睨まれるなんて事は考えられないだろう。
何も話していないんだから。
そして、授業が終わり、教室を出て廊下を歩き始めた時、
「磐神先生!」
聞き慣れない呼び方をされ、それが自分の事だとわかるのに少し時間がかかった。
「はい」
声に応じて振り返ると、そこには多田羅さんがニコニコして立っていた。
また鼓動が速くなる。
名前が同じだからと言って、いきなりスリーパーホールドとかはないだろうと思った。
「ちょっと訊いてもいいですか?」
多田羅さんがグッと近づいて来た。更に鼓動が速くなる。
「な、何でしょうか?」
僕は嫌な汗が背中を大量に流れるのを感じながら応じた。
「出欠を取った時、先生、私をジッと見つめてくれましたよね? それって、私の思い過ごしじゃないですよね?」
嫌な汗の量が倍増しそうだ……。顔もどんどん引きつっていくのがわかる。
多田羅さんは満面笑顔のままで僕を見ている。僕は呂律が回らなくなりそうだったが、
「僕の姉が、美鈴なんだ。だから、ドキッとして……」
ああ、何を言っているんだ、僕は? 今日は落ち着いて対応するんじゃなかったのか?
多田羅さんはクスクス笑いながら、
「という事は、先生のお姉さんて、怖いんですか?」
核心を突く質問をされた。僕は苦笑いして、
「まあね……」
あまり正直に話すと、どこから姉に伝わるかわからなかったので、その程度に留める事にした。
「でも、私は怖くないですよ、先生」
多田羅さんはまたニコッとして小首を傾げ、ポニーテールを揺らせて教室に駆け戻って行った。
その時、また別の視線に気づいた。狭野君だった。
(そういう事か……)
何となくわかった。狭野君は多田羅さんが好きなんだな。だから僕を睨んでいるのだろう。
そんな心配はしなくて大丈夫だよ。そう言いたかったが、まだ憶測でしかないからね。
予鈴が鳴ったので、僕はハッと我に返り、急いで職員室に向かった。
教育実習、なかなか充実しそうだ。
「武彦君、早速、女子と仲良くなったみたいね」
職員室に戻ると、姉の夫の憲太郎さんの中学時代の同級生である須芹日美子先生に声をかけられた。
「いえ、仲良くなったと言うか……。姉と同じ名前の子だったので、それが切っ掛けで話をしただけですよ」
僕は嫌な汗をまた掻きながら言った。そうか、二年一組って、須芹先生のクラスだったな。
あれ? そう言えば、須芹先生はどうして僕の事を「武彦君」と呼ぶんだろうか?
気になるが、訊けない。
「なるほどね。お姉さんと同じ名前の子ね。多田羅さんは大人しい子だけど、好意を寄せている男子は多いから、気をつけてね」
須芹先生がドキッとするような事を言った。
「え?」
また更に嫌な汗が出て来た……。