その二十六
僕は磐神武彦。高校三年生。かろうじてなんだけど。
あの悪夢のような中間テストが終わった。
幼馴染で、現在交際中の都坂亜希ちゃんにマンツーマンで教えてもらったのに、その成果を上げる事もできなかった。
「留年に一歩近づいた」
そんな風に思ってしまうほど惨憺たる有様だった。
「まだ、テストが戻って来ていないんだから、そんなに落ち込まないで、武君」
天使のように優しい亜希ちゃんは、そう言って励ましてくれた。
でも、実際答案用紙と向き合った僕が思うのだから、これほど確実な事はない。
「答えの欄に空欄を残さない事」
亜希ちゃんとの約束。それは何とか果たした。
でも、恐らく、後で各教科の先生から呼び出しを受けるかも知れない。
とんでもない「解答」を連発しているからだ。
点数より、その方が気になった。
「元気出して、武君」
亜希ちゃんが悲しそうに僕を見ているのに気づき、
「うん」
僕は作り笑いをして彼女を見た。
「大丈夫。武君はすごく頑張ったから、きっとその結果が出るよ」
どこまでも優しい亜希ちゃん。でもその優しさも時には辛くなる事もある。
「次の授業、英語だよな。あの先生、テスト返すの早いんだよなあ」
クラスメートの男子達がそう言っているのを聞き、ギクッとする。
嫌な汗が全身から出る。逃げ出したいほどだ。
そんな事を考えているうちに、先生が教室に入って来た。
「皆さんお待ちかねのテストを返しますよ」
ベテラン英語教師の尼照先生が言った。進路指導もしている、学校一怖い先生だ。
「誰も待ってませんよ、先生」
そんな声が聞こえた。先生はニヤッとして、
「では、お返しします」
尼照先生は、いつも成績順にテストを返す。
だから僕は大概一番最後か、二番目と決まっていた。
「都坂」
亜希ちゃんが呼ばれる。
「はい」
先生はニッコリして彼女に答案用紙を返す。
「さすがね、委員長」
「ありがとうございます」
どうやら、満点のようだ。亜希ちゃんは照れ臭そうに僕を見る。
僕は自分はまだ呼ばれないと思っていたから、
「すごいね、亜希ちゃん」
と称賛を惜しまなかった。ところがだ。
「磐神」
へ? もう一人、同じ苗字の奴、いたっけ?
僕はキョトンとしてしまい、そのまま動けなかった。
「何をボウッとしてるの。磐神は貴方しかいないでしょ!」
尼照先生が僕に近づいて来て答案用紙を突き出す。
何かの悪い冗談?
それとも今回から、成績の良い順ではなく、良いのと悪いのを交互に返す事になったの?
「頑張ったね、磐神。見直したよ」
尼照先生が、僕を褒めてくれた。世界は明日滅ぶのかも知れない。
「わあ、すごい、武君!」
亜希ちゃんが横から答案用紙を覗き込んで叫んだ。
「九十五点」
確かにそう書かれていた。ウソ! 信じられない。夢? そうだ、夢だ!
この答案用紙を家に持って帰って、母や姉に見せて喜んでいるところで目が覚める。
きっとそういうオチに違いない。
僕は信じない事にした。
「良かったね、武君」
亜希ちゃんが僕の手を握る。体温まで感じるなんて、手の込んだ夢だな。
僕はどうしても信じなかった。
そして下校時。この夢は長い。まだ目が覚めないのは、本当に悪質だ。
意地が悪いにも程がある。
「武君、嬉しいよ。頑張った甲斐があったね」
「う、うん」
夢だけど、亜希ちゃんには普通に接しておこう。
亜希ちゃんは突然僕の手を掴み、公園に入った。
「ど、どうしたの、亜希ちゃん?」
「え、うん、ちょっとね」
僕達は誰もいない裏手に来た。
「武君、私からのプレゼントあげる」
「え?」
「目を瞑って」
亜希ちゃんは何故か顔を赤くして言った。
「うん」
僕は素直に目を瞑る。ここで亜希ちゃんが妖怪になったとしても、夢だから驚かない。
え? 何、今の? 唇に何かが触れた……。
「いいよ、開けて」
顔が赤いままの亜希ちゃんが、僕を見ている。
「プレゼント、おしまいね」
彼女は嬉しそうに笑うと、僕を引っ張って公園を出た。
何だろう? いくら夢でも、意味不明過ぎるぞ。
僕は家に着いた。
「只今」
キッチンに姉がいるようだ。
「お帰り。早かったな」
「試験の次の週は、早いんだよ」
「ああ、そうだっけ」
姉は大学に行く準備をしていた。
「姉ちゃん、英語のテスト」
「え? お前から見せるなんて、どうしたんだ? 五十点くらい取れたか?」
我が姉ながら、そして夢だとしても、酷い言われようだ。
「お、おい、お前、カンニングしたのか!?」
いきなり胸倉を掴まれる。
「し、してないよ!」
「ホントか? だって、お前、英語なんて今まで三十点台が最高だっただろ?」
姉が驚くのも無理はない。
僕だって、できの悪い弟がいきなり満点に近い点数を取ったら、同じ事を言うだろう。
「ホントだよ。でもこれ、夢だから。気にしないで」
「はあ?」
姉は僕の言葉に呆然としていた。僕はそのまま自分の部屋に行った。
「いったあ!」
ドアを閉める時に指を挟み、涙が出た。
「あれ?」
痛い。夢でこんなに痛いか?
僕は古典的な事をしてみた。ほっぺを抓っても痛かった。
「夢、じゃない?」
改めて答案用紙を見る。
「夢じゃない!?」
九十五点。紛れもなく現実だった。本当に世界が今日で終わるのではないかと心配になった。
これも亜希ちゃんのおかげだ。
亜希ちゃんのおかげ? あれ? 何かあったような……?
そして気づく。公園で僕の唇に触れたのは……!
その夜は、テストの事と公園の事で、全然眠れなかった。