その二百六十八
僕は磐神武彦。大学四年。
遂に最大の目標である教員への第一歩である教育実習の時がやって来た。
この時期は、試験勉強をしているゆとりがない程、いろいろとこなさなければならない事がある。
試験勉強ができないのはそれほど苦にならない。それより気がかりなのは、教育実習そのものだ。
生まれついての引っ込み思案で、知らない人と話すのが苦手で、取り分け、知らない女子と話すのはもっと苦手な僕。
それなら、教員になろうなんて思わなければいいと言われてしまいそうだ。
もちろん、それもわかっていて、それでも尚、教員になりたいと思ったのだ。
だから、人前が苦手だとか、知らない人と話すのが怖いとか言っている場合ではない。
「あんたのそこだけが心配だよ」
教育実習に行く事を姉に話したら、あっさりそう言われてしまった。
「でも、頑張れよ。応援しているからな」
姉は三月に生まれたばかりの憲人を抱きながら、励ましてくれた。
「武君、しっかりね」
そんな状況でも、全然似ていないと再三言っている彼女の都坂亜希ちゃんの真似をして締めるところが、姉らしかった。
「はいはい」
僕も型通りのおざなりな返事をしたのだが。
「武彦、頑張ってね」
もちろん、言うまでもなく、亜希ちゃん本人からも励ましの言葉をもらった。
「うん」
そして、その後、励ましのキスも……。これが一番力になるかも。
そして、とうとう母校での教育実習第一日目の朝が来た。
「普段通りでいいのよ、武彦」
出かける時、母が弁当を渡してくれながら言った。
「ありがとう、母さん」
母の弁当なんて、高校の時以来だ。何だか、懐かしい。
しかも、行くのも同じ場所。高校生に戻ったような気がした。
初日の今日は、校長先生、生徒指導・進路指導・教務などの担当者から学校の教育活動の実際について説明、講話を受けた。
所謂、オリエンテーションだ。
それから、先輩の先生方の授業を参観。これは実に新鮮だ。
小学校、中学校ともに母は仕事が休めず、授業参観には一度も来てもらえなかったのを思い出した。
僕は寂しかったのだが、友人達には羨ましがられた。誰も彼も、親が学校に来るのは恥ずかしいし、照れ臭かったようだ。
そして、次は授業の計画書を作成した。
それから、もう一度授業を参観。
只、参観した訳ではない。教育実習に来ている事を担当の先生である高木睦美先生に話してもらい、続いて自己紹介。
人生で一番緊張したと言っても、過言ではない。
「おはようございます。磐神武彦と言います」
自分の名前を黒板に書いた。手が震えているのがわかる。生徒の中にもそれに気づいた子が何人かいたようで、クスクス笑い声が聞こえて来た。
そのせいで更に緊張度がアッップしてしまい、その後でした自己紹介の記憶が飛んでしまった。
全部で三クラス回り、その度に自己紹介をしたので、三回目には随分と落ち着いていたと思う。
「先生、彼女はいるんですか?」
「美人ですか?」
凄い質問をされたが、自分で何と答えたのか、全く覚えていない。
只、思った以上に生徒達が笑っていたのは何となく覚えている。
「磐神、あそこまで正直に話す事はないんだぞ」
職員室に戻った時、高木先生に苦笑いされてしまった。
「え? 僕、何を話したんですか? 全然、覚えていないんですけど?」
ゾッとした僕は、冷や汗を垂らしながら尋ねた。すると高木先生は目を見開いて、
「ホントか? そんなに緊張しているようには見えなかったんだが?」
「え?」
ますます嫌な汗が出てしまった。
どうやら僕は、亜希ちゃんの名前を言って、同級生だった事まで話したらしい。
しかも、美人で、エーススプリンターだったとまで言ってしまったようだ。ああ……。
それはまずい。亜希ちゃんに怒られそうだ。
「幸い、お前達の同級生の弟や妹は在学していないから、都坂に迷惑をかける事はないと思うけどな」
「すみません……」
僕は高木先生に平謝りした。
「別に私に謝らなくてもいいよ。でも、都坂には伝えておけよ。何が切っ掛けで、彼女に伝わるか、わからないからな」
「はい……」
僕は亜希ちゃんに申し訳なくて、その日はすっかり気分が落ち込んでしまった。
そして、放課後。もう一度授業の計画書を作成していると、
「武彦君、お疲れ様」
姉の夫の憲太郎さんの中学の時の同級生である須芹日美子先生に声をかけられた。
須芹先生は、姉からの情報だと、クラスのマドンナ的存在だったらしい。
姉は憲太郎さんと須芹先生の中学時代を疑っているが、須芹先生の話だと、憲太郎さんとはほとんど話した事がないそうだ。
姉の一人暴走だろう。
「クラスの子から聞いたわよ。磐神先生は、彼女自慢をたくさんしていたって」
須芹先生が悪戯っぽく笑いながら教えてくれたので、僕はギクッとしてしまった。
彼女自慢、か……。ちょっと嫌な奴になってしまうな。
「でも、自慢したくなるわよね。本当に綺麗な人ですもんね」
須芹先生にそう言われて、亜希ちゃんとは面識があるのを思い出した。
「ありがとうございます。何だか、恥ずかしいです」
「そんな事ないわよ。楽しい先生だって、評判いいわよ、武彦君」
思ってもみない事を言われたので、僕は一瞬身体が固まってしまった。
評判がいい? 嬉しい言葉だ。涙が出そうだ。
「小学生ならいざ知らず、相手は十代後半の人間なんだから、上辺だけ繕ってみせてもだめ。むしろ、そうやって自分を偽っていない人の方が受け入れてもらえると思うわ」
須芹先生は真顔で言った。僕は涙を堪えるのが大変だったが、
「ありがとうございます!」
早過ぎるかも知れないが、やっていける自信が少しだけ身についたような気がした。