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姉ちゃん全集  作者: 神村 律子
大学四年編
263/313

その二百六十二

 僕は磐神いわがみ武彦たけひこ。大学四年になった。


 幼馴染みで彼女でもある都坂みやこざか亜希あきちゃんとの交際も順調。


 そして、目標である教員試験へのステップも滞りなく進めている。


 願書もしっかり記入して送付したし、六月に控えている教育実習の打ち合わせも母校の先生と何度かさせてもらっている。


「楽しみにしているわね」


 在校当時、進路指導の担当で、英語の担任でもあった尼照あまてる先生もいらしたので、ちょっとびっくりしてしまった。


 考えてみれば、僕が卒業したのは四年前なのだから、まだいらしても不思議ではない。


 先生の中には、一度も転任になっていない方もいらっしゃるそうだ。


 だから、尼照先生がいる事は別に不思議な事ではないのだ。


「貴方みたいな子が教師の道を目指してくれるのは、本当に嬉しいわ。頑張ってね」


 涙ぐまれてそう言われた時は、もらい泣きしそうになってしまった程だ。


十把じゅっぱ一絡ひとからげにはできないけど、教師になる人って、学校生活で悩んだりした事が少ないのよ。それから、虐めに遭ったりした事もない。だから、そういう事に出くわすと、許容範囲を超えているから、対処できなくなる人が多いの」


 ベテランの尼照先生の言葉は重い。僕は姿勢を正して聞いた。


「こんな話は聞きたくないかも知れないけど、貴方は中学時代、虐めに遭っていたんでしょ? その経験は貴重よ。多くの教師は虐められている子の出している信号をキャッチできないの。できても聞こえないフリをしてしまうのよ」


 尼照先生がそう言った時、気のせいかも知れないが、居合わせた他の先生方がビクッとしたのがわかった。


「はい」


 僕は尼照先生の期待を感じて、緊張して来てしまった。


「教員試験は途方もなく道のりが険しいけど、本当の『登山』は赴任してからよ」


 僕は尼照先生にお礼を言って、母校を後にした。


 確かに僕は中学時代に虐められていた時、担任の先生も生徒指導の先生も全然それに気づいてくれなかった事を思い出した。


 いや、気づいていたけど、気づかないフリをしていたのかな?


 あまりそんな事は思いたくないけど。


 僕は虐められた経験があるけど、果たして誰かが虐められているのを気づける教師になれるのだろうかと、ふと不安になった。


 いや、なれる。なってみせる。でなければ、僕が教員の道を目指した理由の半分が無意味になってしまうからだ。


 教員になりたいと思った一番の理由は、亡き父が教員だったから。


 そして、二番めの理由は、自分が虐められっ子だったから。


 自分と同じ子が一人でも少なくなればと思ったのだ。難しい事だけれど、それだけは諦めずにいたい。


 あんな理不尽な思いをするのは嫌だ。そして、させたくない。


 だから、絶対に教員になる。決意が更に固くなった。


 その日はバイトは休みで、そのまま家に直行したかったのだが、そうもいかない。


 我が姉美鈴が呼んでいるのだ。


 週に二回は姉がいる力丸家に顔を出さないと、後でお説教が待っているのだ。


 最初は、姉が怖くて力丸家に顔を出していたのだが、やがてそれは表向きの口実になっていった。


 甥である憲人けんとが可愛くて仕方がないのだ。


 一週間以上憲人に会わないと、おかしくなってしまいそうなのだ。


「ずるい、武彦ったら」


 力丸家に行く事を亜希ちゃんに連絡すると、そう言われた。


 亜希ちゃんも社会福祉士の試験を受けるために講義の数を増やしていて、今日は夜まで大学なのだ。


「ごめん」


 僕が謝ると、


「いいもん。明日は朝から憲人君に会いに行くから」


 ハイテンションな声で言われてしまった。明日は土曜日だが、僕は大学に行かなければならない。


 最近、すれ違いが多いが、お互いにそれも我慢している。


「憲人に乗り換えられちゃいそうだね」


 僕が冗談を言うと、亜希ちゃんは、


「そ、そんなはずないよ、私は武彦一筋よ」


 立場が逆だと調子が狂うのか、妙に早口で言われ、とっても嬉しくなった。


「ありがとう、亜希。愛してるよ」


 初めて言ってみた。大好きだとは何度も言っているけど、「愛している」は言った事がなかったのだ。


「私も愛してるよ、武彦」


 亜希ちゃんは言葉の後に投げキスの音を聞かせてくれた。いつも以上に照れ臭くなった。




 しばらくして、力丸家に着き、姉と憲人がいる部屋に通された。


「おう、武」


 入って行くと、姉は授乳中だった。何度もそういう事があったので、今ではそれほど驚かない。


 姉があっけらかんとしておっぱいを出しているので、僕もそれについて何も見えていないように普通に話しかける。


「憲人はまた大きくなったね」


 それでもジッと見てしまう訳にはいかないから、床に無造作に置かれた遊具に目を向けた。


「はい、ゲップちまちょうね」


 姉は憲人を抱き直し、背中を軽く叩いて、ゲップをさせている。


「お前にもこうしてあげたんだぞ、武。覚えていないだろうけど」


 姉はニヤニヤして僕を見る。いや、いくら姉が育つのが早くても、ゲップをさせる手伝いはできなかったと思う。


「へえ、そうなんだ。覚えてないよ」


 でも、そんな事を言うと話が長くなるので、本当の事にしておくのが正しい「美鈴対処法」なのだ。


「悪いな、お前も忙しいのに」


 姉は憲人をベビーベッドに寝かせながら言った。そんな事を言われると思っていなかったので、僕はポカンとしてしまった。


「ああ、いや、僕だって、憲人が可愛いからさ。会いたくて来ているんだよ」


「そうなの?」


 姉は憲人を見たままだ。


「だんだん、姉ちゃんに似てきたね、憲人」


 僕は憲人の顔を覗き込んで言う。すると姉は嬉しそうに僕を見て、


「そうかな? まあ、どっちに似ても、イケメンに育つのは確定だけどな」


 ちょっと油断するとすぐそういう事を言い出す。


「だけど、お義父とうさんがいるところでは絶対に言うなよ。ご機嫌を損ねるからな」


 姉が真顔で言ったので、これは忘れてはいけないときもに命じた。


 夫の憲太郎さんのお父さんの利通さんは、憲人は憲太郎さんにそっくりだと言っているらしく、憲人を見に来た人が、


「美鈴さんに似ている」


 そう言おうものなら、ずっと口を利かなくなるのだそうだ。子供みたいだ。


「その後で、お義母かあさんにお説教されてションボリしているんだけどね」


 お義母さんの香弥乃さんは、普段は大人しい人だが、いざという時には怖い人で、利通さんも頭が上がらないのだ。


 だが、そういう結末になるのがわかっていても、憲人が憲太郎さんに似ているという話は譲れないのだそうだ。


 孫って、そんなに可愛いのかな? 我が母もそんな感じだったからな。


「だから、早く亜希ちゃんと結婚して、甥でも姪でもいいから、母さんと私に見せてくれよな」


 姉に微笑んでそんな事を言われ、僕は鼓動が速くなるのを感じた。


 その前に結婚、いや、その前に就職。更にその前には試験に合格が待っているんだけどね。

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