その二百五十八
僕は磐神武彦。大学三年を終え、春休み中。
だが、教職を取る僕には、はっきり言って春休みも夏休みもない。
四月五月で願書を提出し、六月には教育実習。
七月には一次試験、八月には二次試験。九月には三次試験。
試験に合格しても、採用にならなければ、教員にはなれない。
改めて、何という厳しい道を選んだのだろうと思った。
しかし、後悔は全くしていない。
亡き父が教員だったという事だけではない。
人生の中でここまで真剣に考え、取り組んだ事がないのだ。
だから、必ず合格し、必ず教員になろうと思っている。
そして、我が姉美鈴が、三月上旬、待望の第一子を出産した。
夫の憲太郎さんは知りたくないと言って教えてもらわなかったそうなのだが、姉は出産前に子供の性別を聞いていた。
男の子だったので、力丸家は大いに喜んだそうだ。
どちらが生まれてもいいようにと憲太郎さんと姉で考えた名前が既に用意されていたので、その子の名前はあっさり決まった。
憲人。当然の事ながら、憲は憲太郎さんの名前から取った。
女の子だったら、鈴音にする事にしていたそうだ。鈴は姉の美鈴から取ったものだ。
そんな話を聞いたので、僕はまた妄想が暴走しかけた。
彼女の都坂亜希ちゃんとの子供の名前。
女の子が生まれたら、亜希ちゃんのどちらを取ろうか?
男の子が生まれたら、彦を付けるのは譲れないと思ったり……。
只、小耳の挟んだ情報だと、憲太郎さんのお父さんの利通さんが自分で考えた名前をつけたかったらしく、お酒が入ると、憲太郎さんに愚痴るらしい。
そして、奥さんの香弥乃さんに叱られて、しょんぼりするのが定番になっているそうだ。
そんな話をメールで寄越すくらいだから、姉もすっかり力丸家に馴染んでいるのだと思っていた。
出産前には、僕に、
「お前に任せるから」
そんな事を言っていた姉だったが、僕が教員試験を受けると知った憲太郎さんのお姉さんの沙久弥さんに、
「ウチに来てもらったら」
そんな提案をされ、何も抵抗する事ができずにその流れになったのだ。
「毎日、顔を出してね、武君。姉ちゃんのお・ね・が・い」
姉からそんなメールをもらった時、毎日行かないと後で大変だと思った僕だったが、
「武彦君は教員試験で大変なんだから、そんな無理を言ったらダメだよ」
憲太郎さんが姉を窘めてくれたらしい。憲太郎さんもかつては教員になろうと考え、三年の途中まで頑張っていたらしいのだが、柔道部の監督に説得され、柔道に専念する事になった。
だから、教員試験がどれほど大変なのかよくわかっているので、姉に言ってくれたのだ。
でも、僕としては、姉の子供は僕の甥でもある訳だから、可愛いのは確かだ。
だから、行ける日はできるだけ行こうと思っていた。
「ねえ、武彦、赤ちゃん、いつ会いに行くの?」
亜希ちゃんは毎日電話で聞いて来た。
友人や親戚で相次いで出産があったので、すっかり赤ちゃんに嵌っているらしいのだ。
「明日行くよ。ちょうど憲太郎さんもいるし」
僕が答えると、
「沙久弥さんも来るんでしょ?」
亜希ちゃんのいきなりのキラーパスめいたお言葉に僕は酷く動揺した。
確かに沙久弥さんも来るらしいのだが……。何故それを?
「もう、武彦ったら、私が嫉妬してそう言ったと思ってるでしょ?」
亜希ちゃんは何故かクスクス笑いながら言った。僕は呆気に取られて、
「え? どういう事?」
「沙久弥さんから私に電話があったの。明日実家に行くからって」
僕はホッとしたような余計緊張するような妙な気分になった。
亜希ちゃんはずっと沙久弥さんをライバル視している。
そんな関係ではないし、そんな事があるはずもないのに、姉との関係同様、亜希ちゃんには妄想を拭い切れない事なのだ。
まあ、それだけ僕の事を好きでいてくれているのだと考えるしかない。
そして、翌日。
僕は亜希ちゃんと共に力丸家に向かった。
久しぶりだ。いつ以来だろうか?
それから、憲人に会うのも、出産した日以来だ。
あの日は、病院の人に叱られてしまう程、たくさんお見舞いの人が来てくれた。
母方の祖父母、叔父、そして、父方の祖父母、父の兄夫婦の研二さんと依子さん、そして、未実さん。
その次の日には、父方の従兄の須美雄さんご夫妻、日高建史さん、その次女の磯城津実羽さんと娘の皆実ちゃんも来てくれたそうだ。
退院が早かったので、次に行こうと思ったら、もう力丸家に行ってしまう日だった。
亜希ちゃんは出産の日にはどうしても予定が合わなくて、今日が憲人との初めての対面だ。
「ねえ、憲人君、どっち似なの?」
電車の中で尋ねられた。でも、まだどっちに似ているかなんてわからない顔をしていたと思う。
「どっちかなあ。まだ何とか人の顔っていう感じだったからなあ」
僕は憲人の顔を思い出しながら言った。すると亜希ちゃんは、
「酷いな、もう。そんなはずないよ、武彦。姫ちゃんとこの結衣ちゃんも、忍さんと真弥さんのとこも、しっかり人間の顔だったよ」
「そ、そう?」
まさかそこを突っ込まれると思わなかったので、ちょっと焦った。
「武彦は、どっちがいい?」
亜希ちゃんがモジモジして耳元で囁いたので、僕はドキッとした。
「どっちって?」
わかっているのにわざと訊いてみた。すると亜希ちゃんはプウッとほっぺを可愛く膨らませて、
「もう、意地悪! 私達の子供よ。男の子と女の子、どっちがいいの?」
亜希ちゃんとの子供だったら、どっちでもいいよ、と言いそうになったが、それを言ったら確実にお説教されそうなので、
「女の子かな。昔から、一姫二太郎って言うでしょ?」
僕は顔がどんどん火照るのを感じながら答えた。亜希ちゃんは嬉しそうに、
「私もそう思った。女の子が先の方が、弟の面倒を見てくれるだろうから」
「そうだね」
そこまで具体的に言われると、ちょっとあれっと思う。僕は姉によく面倒を見てもらったのだろうかと。
僕が覚えていないだけなのかも知れないけど。
「その前に私達は就職をしないといけないよね」
亜希ちゃんが一気に現実に引き戻してくれた時、降車駅に着いた。
僕にとっては、就職よりも、出産よりも、亜希ちゃんとの結婚がまだ現実味を帯びていない気がした。




