その二百五十七(姉)
私は力丸美鈴。もうすぐ出産の妊婦。
今日は夫の憲太郎君は仕事。
産休に入った私は、一人でマンションにいるのは退屈なので、親友の美智子の嫁ぎ先に行く事にした。
美智子のご主人のお父さんが亡くなって、彼女はいろいろ大変だったのだが、それを乗り越え、すでに一児の母。
先輩である美智子にアドバイスをしてもらおうと思ったのも事実。
それから、女のきょうだいばかりの彼女は待望の男児を出産したので、
「可愛過ぎて怖いくらいだから、早く見に来て」
何度もメールや電話をもらっていたのだ。
早速親バカしているな、と思いながら、私はマンションを出た。
出産予定日までまだ幾日かあるので、いきなり陣痛という事もないだろうと思い、一人でバスと電車を乗り継いで出かける事にした。
何事もなく、バスで駅まで行き、改札を抜けてホームに出た。
妙に緊張してしまうのは、久しぶりの人混みだからだろう。
幸い、私が乗ろうとしていた電車は混んではいなかった。
周囲の人に気遣ってもらい、その温かさに涙ぐみながら、電車を降りた。
乗る時は改札を出てすぐのホームだったのでよかったのだが、降りた駅は階段を上り下りしなければならない。
エレベーターが着いている程大きな駅ではないので、手すりに掴まって一歩ずつ進むしかないと思い、ホームを歩き出した時だった。
「わあッ!」
いきなり後ろから幼稚園児くらいの女の子に大声を出された。
「きゃっ!」
ちょっとびっくりして、よろけてしまったが、転びはしなかった。
「あ、お母さんじゃなかった……。ごめんなさい、おばちゃん……」
泣きそうな顔でそう言われた。驚かされた事より、「おばちゃん」と言われた事にショックを受けたが、
「大丈夫よ」
微笑んで応じた。
女の子は何度もごめんなさいと言って頭を下げ、逃げるように階段を駆け上がっていった。
私は気を取り直して、また歩き始めた。
あれ? 何だか変だぞ……。内腿に何かが伝わる感覚がある。
まさか……?
立ち止まり、マタニティドレスの裾を恐る恐るめくってみた。
勘違いではなかった。破水したようだ。
さっきのビクッとした衝撃だろうか? いや、そんな事はどうでもいい。
「あああ……」
そんな事を考えているうちに、滴り落ちる液体の量が増えていった。
「あ、貴女、破水したの?」
そばを歩いていた母方の祖母と同年代くらいの女性が声をかけてくれた。
「そう、みたいです」
私はショルダーバッグの中から吸水性の高いタオルを取り出して、階段の下に行き、充てがった。
「どうしましたか?」
さっきの女性が駅員さんを呼んでくれた。私は少し恥ずかしかったのだが、
「破水したみたいなんです」
「救急車を呼びましょうか?」
駅員さんはまだ若い男性で、既婚者ではないようだ。
私の足元が濡れているのを見て酷く動揺している。
「いえ、大丈夫です。歩けますから」
「いや、呼びましょう!」
その駅員さんは私が止めるを無視して、事務室に走って行ってしまった。
「大丈夫、貴女?」
さっきの女性が心配そうな顔で声をかけてくれた。
「大丈夫です」
私は笑顔全開で応じたのだが、
「顔色が悪いわ。やっぱり救急車を呼んだ方がいいわよ」
そんな事を言われると、大丈夫だと思い込もうとしている自分の判断が揺らいで来る。
結局、駅員さんが呼んだ救急車が駅の前に到着し、私は担架に載せられた状態で改札を通り、救急車に乗せられた。
その間に、私は母と憲太郎君に連絡をした。愚弟の武彦には母が連絡すると言ってくれたのでホッとした。
あいつにこの状態を言ったら、動揺しまくってパニックになりそうだからだ。
母ならうまく伝えてくれるだろうと思った。
大事になってしまい、凄く恥ずかしかったのだが、
「頑張ってね!」
通り過ぎる乗客の皆さんの温かい声にジンとしてしまった。
「かかりつけの病院はありますか?」
救急隊員に尋ねられ、私は病院の名を告げた。この駅からもそれ程遠くはないはずだ。
「すぐに到着しますからね」
「はい」
隊員の皆さんにも優しい言葉をかけていただき、また涙ぐんでしまった。
病院に着くと、すぐに分娩室に運ばれた。どうやら頭が出て来てしまっていたようだ。
陣痛はそれほど酷いものもなく、私は出産の態勢に入った。
こんな事になるなんて思わなかったが、難産になるよりはマシかと考える事にした。
まもなく、憲太郎君が到着した。母ももう少ししたら着くらしい。
希望通り、出産は短時間で終わってくれた。憲太郎君は知りたがらなかったのだが、私は担当の先生に聞いていて知っていた。男の子。名前もいくつか候補がある。
「頑張ったね、美鈴」
汗みどろで酷い顔をしているはずの私の頬を優しく撫でて憲太郎君が言ってくれた。
「うん。誰よりも先に、武彦に伝えて。あいつには二度も悪い事しちゃったから」
憲太郎君は笑って、
「わかったよ。一番に伝えるよ」
そう言ってから、キスをしてくれた。今までで一番嬉しいキスだった。
そして、しばらくして病室に移った時、憲太郎君が苦笑いしてやって来た。
「どうしたの?」
私は不思議に思って尋ねたのだが、
「姉貴がさ、武彦君は教員試験で大変だろうから、美鈴さんにはウチに来てもらいなさいって言ってるんだけど、どうする?」
憲太郎君の話は驚愕ものだった。
私は数ヶ月前から、武彦に育児の手伝いをするように「お願い」していたのだ。
その計画が水泡に帰してしまう……。だが、憲太郎君のお姉さんの沙久弥さんに、
「実家に帰りますので大丈夫です」
そんな事は言えない……。
「わかった。お言葉に甘えさせてもらうね」
私が言うと、憲太郎君はまた苦笑いした。きっと私の顔が引きつっていたのだろう。
そして、こっそり病室抜け出し、武彦にメールを打った。
「毎日、顔を出してね、武君。姉ちゃんのお・ね・が・い」
それはもう切実な「お願い」だった。