その二百五十三
僕は磐神武彦。大学三年をもうすぐ終了する。
亡き父の実家との諍いもようやく終息を迎えそうだ。
姉が、会社の一年先輩の沖永未子さんと一緒に父方の従兄の須美雄さんと会った。
須美雄さんは、その諍いを解消しようと尽力してくれた人で、最後の難関はその妹さんの未実さん。
その未実さんが、妹会に参加しており、そのつながりで沖永さんと話す機会があったのだ。
沖永さんは会社では揉め事解決人の異名を持つ人らしい。
そこで沖永さんが間に入って、未実さんと話してくれる事になった。
未実さんは、お兄さんの須美雄さんの事が大好きで、須美雄さんに叱られた事がショックなのだそうだ。
須美雄さんと未実さんが話してくれれば、最終的には未実さんも僕達に心を開いてくれるのではないかと考えた沖永さんのお陰で、長かったトンネルから抜け出せそうな予感がした。
そして、沖永さんと姉が須美雄さんと会った翌日の事。
僕はいつものように家を出た。
「おはよう、武彦」
彼女の都坂亜希ちゃんが笑顔で待っていてくれる。
「おはよう、亜希」
笑顔を返し、いつも通りに駅へと歩き出す。
「毎日、寒いね」
亜希ちゃんはそう言いながら、腕を組んで来る。
亜希ちゃんに腕を組まれるのはこれで何回目かわからないくらいだけど、未だに体温が上がってしまう。
これは情けない事なのだろうか?
「そうだね」
そんな身体の中の変化を悟られないように、僕は平静を装う。
実は僕は、亜希ちゃんに大変申し訳ない事をしてしまったのを気に病んでいる。
先日、中学の時の同級生である須佐昇君とその奥さんになった姫乃さんがアルバイト先のコンビニに来てくれた。愛娘の結衣ちゃんも一緒だ。
たまたま近くに来て、僕がいるのを思い出して寄ってくれたそうだ。
「亜希ったら、磐神君と別行動の日、必死で受験勉強しているのよ。これは内緒ね」
黙っていられない姫乃さんが悪戯っぽく笑って教えてくれた。
「ダメだよ、姫乃。都坂さんは磐神君には絶対に内緒にしてねって言ってたじゃないか」
須佐君が窘めたのだが、姫乃さんは、
「私に喋ったって事は、話して欲しいって事なんだから、大丈夫。でも、亜希には内緒ね」
僕にウィンクして来たので、ドキッとしてしまった。いろいろな意味で。
聞いてしまった以上、記憶から消去する事はできない。
でも、姫乃さんの事を考えると、亜希ちゃんに聞いてしまった事は言えない。
しかし、知っているのに亜希ちゃんに黙っているのはいけない事だとも思う。
どうしたらいいのか迷っているうちに数日が過ぎてしまった。
そして、いよいよ堪え切れなくなった僕は、その日、駅に着いた時に話そうと決意した。
ところが、その話をする事ができないような事が改札を通り抜けた時、起こった。
「武彦君、おはよう」
その声を聞いた時、空耳かと思った。途端に亜希ちゃんの腕に力が入る。
僕は声がした方に顔を向け、空耳ではない事を確認した。
「おはようございます」
そう、そこには、最後の障害となっている未実さんがいたのだ。
亜希ちゃんは未実さんと面識がないので、また新たなライバル登場と思ったのか、
「誰、武彦?」
すぐに耳元で囁いた。僕は亜希ちゃんを見て、
「従姉の未実さんだよ」
途端に亜希ちゃんの「戦闘力」が下がっていく。その表現は失礼か。
「そちらが貴方の彼女の都坂亜希さんね?」
どうやら、同じ妹会のメンバーである長須根美歌さんに聞いたみたいだ。
未実さんは父の実家であった時のような、またはバイト先で会った時のようなきつい表情をしていない。
元々、いとこであるから、姉と似ているところはあった。
今の未実さんは、あの時より遥かに姉にいている。
姉は母に似ていると思っていたのだが、どうやら父方の遺伝子もきちんと受け継いでいるようだ。
亜希ちゃんもそれに気づいたらしく、
「美鈴さんに似ているね」
小声で言った。僕は未実さんに微笑んで、
「あの、何か?」
すると未実さんは何故か照れ臭そうに俯き、
「この間はごめんなさい。いきなり貴方が現れたから、失礼な事をしてしまって……」
「いえ、それは別に」
僕は未実さんが何のためにここにいたのかが早く知りたかった。
電車の時間にはまだ余裕があるが、とにかく早く知りたかった。
未実さんは僕の視線に気づいたのか、目を上げて口を開いた。
「美歌さんに言われたの。『私の死んだ兄ちゃにそっくりな人は本当に優しいです』って。それを思い出して、私、どうして貴方を見て逃げてしまったのか、わかったの。武彦君はお兄ちゃんに似ている。だから……」
そんな事を言って、モジモジし始めた未実さん。ええっと、どういう事?
「未実さん?」
僕は理解ができなかったので、先を促すつもりで声をかけた。未実さんは心なしか顔を赤らめているように見えた。
亜希ちゃんの腕にまた力が入った。戦闘力が上がっていくような気がするが……。
「だから、今まで貴方達家族を憎んでいた事がもの凄く恥ずかしくなって……。どうしても今日、貴方に会って謝りたかったの……」
亜希ちゃん、誤解だよ。未実さんは僕に恋している訳じゃないから。そう言いたいが、言えない。
「ごめんなさい、武彦君。いえ、美鈴さんにも、美鈴さんのご主人にも謝らなくちゃね。そして、珠世叔母さんにも、もちろん、尊叔父さんにも……」
未実さんは泣き出していた。ホームを行き交う人達が不思議そうに僕達を見て通り過ぎていく。
「私が言いたかったのは、それだけ。じゃあね」
未実さんはすっきりしたような笑顔で言うと、クルッと背を向けて駆け出した。
「ええっと……」
何だか、勝手に喋って勝手に行ってしまうところが、我が姉によく似ている……。
「未実さん、恥ずかしがりなのね」
亜希ちゃんが駆けていく未実さんの背を見ながら言った。そうなのかな?
それからしばらくして、僕は電車の中で亜希ちゃんに言わなければならない事を思い出した。
そして、まず謝ってから話した。すると亜希ちゃんは溜息混じりに、
「本当に姫ちゃんはお喋りなんだから。後できっちりお説教ね」
「え? でも、そんな事すると……」
僕は慌ててしまった。すると亜希ちゃんは、
「内緒にする約束を先に破った人に武彦をどうこう言う資格はないから、心配しないで」
そう言って、ホームに降り立つと、僕を階段の陰に連れて行き、
「内緒にしていてごめんね」
そう言ってキスをして来た。ポオッとしている僕に亜希ちゃんは、
「だって武彦ったら、未実さんにヘラヘラしてるんだもの。嫉妬しちゃったから、今日はキス攻撃するの」
また不意打ちをされてしまった。
こんな嫉妬の仕方なら大歓迎だと思う僕は、ダメな奴だろうか?
それから、確か、須美雄さんと沖永さんと未実さん、まだ話していないんだよね?
いいのかな、未実さん、独断で……。そっちも心配だ。