その二百五十一
僕は磐神武彦。もうすぐ大学四年。
教員採用試験に向けての準備も怠りない。
そして、彼女であり、僕の最高の理解者でもある都坂亜希ちゃんとの関係も順調。
亜希ちゃんは当初の予定通り、社会福祉関係の仕事に就くつもりのようだ。
だが、詳細は聞いていない。僕も亜希ちゃんには高校の教員免許を取ろうと思っている事は話しているが、教科までは伝えていない。
お互い、あまり相手の事を訊かず、干渉せず、反対もせず、というのが僕らの間の了解事項だ。
下手にあれこれ知ってしまったり知られてしまったりすると、いざという時に退けなくなってしまうから、というのが僕の考え。亜希ちゃんは、
「私って、出しゃばりだから、知ってしまうときっと口を出してしまうと思うの。だから、それ以上は教えないで」
そう言ってくれた。いや、人生で一度も亜希ちゃんに出しゃばられたと思った事はない。
むしろ、姉になら、幾度となく必要以上に出しゃばられた覚えがある。
今日は、別行動の日ではないが、午後からバイトが入っているので、亜希ちゃんが、
「少しでも会いたいけど、会ったら会ったで、離れたくなくなってしまうから、今日は我慢するね」
もう涙が零れそうな健気な事を言った。感動してしまった。
僕は亜希ちゃんの顔を見ずにバイトに行くのが辛かったが、亜希ちゃんの気持ちを優先してそこは我慢した。
「お前、絶対尻に敷かれるよな」
フィギュア仲間によくそう言われる。
「でも、都坂さんのお尻になら敷かれたい気もわからないでもない」
セクハラギリギリ、いや、完全にアウトな事も言われた。
実際にそう思っている事は、フィギュア仲間にも亜希ちゃんにも知られる訳にはいかない。
教員試験関連の事をインターネットで調べたりしているうちに時間がドンドン過ぎてしまった。
戸締まりを確認し、玄関のドアをしっかり施錠して、僕は出かけた。
亜希ちゃんの家の前を通る時、玄関や彼女の部屋の窓をチラッと見たが、姿は見えなかった。
さすが亜希ちゃん、僕と違って割り切っているのだろう。
何度か降った、とは言え、豪雪地帯の方達からすれば、降ったうちに入らない程度かも知れないけど、日陰に雪の残骸が残っている。
コートの襟を立てて、駅へと急いだ。
普段はあまり乗らない電車。ほとんど乗客がいないと思ったら、別の車両にはたくさん乗っていた。
時間が惜しい人は、到着するホームのどの位置にどの車両が止まるのかを調べて乗っているらしい。
僕にはそこまでの気力はない。どちらかと言えば、一本早い電車に乗る方が効率的だと思ってしまう方だ。
「先輩、おはようございます」
コンビニの事務室に入ると、同じ大学の一年後輩の長須根美歌さんが挨拶してくれた。
いつもより嬉しそうな顔をしているので、どうしたのだろうと思っていると、
「妹会で新しくできたお友達が遊びに来てくれたんです」
「そうなんだ」
僕はあまり興味を示さないように、それでいて長須根さんに失礼がないように笑顔で応じた。
「それで、先輩が死んだ兄ちゃによく似ているって話したら、会いたいって言ってくれて、お店で待っているんです」
「え?」
長須根さんとの出会いの切っ掛けは、彼女の亡くなったお兄さんに僕がよく似ているという偶然からだった。
またそれが切っ掛けで新たな出会いがあるとは思わなかった。
あれ? それってまさか、姉の義理のお姉さんの沙久弥さんの嫁ぎ先である西郷家の依里さんとか詠美さんではないよね?
念のために確認してみると、
「ああ、沙久弥さんのお義姉さんには先輩の事は伝えてありますから、もうご存知ですよ」
「そうなんだ……」
今度会った時、その話題でいじられそうな予感がする。
急かす長須根さんに引っ張られるようにして、僕は事務室から店頭に出た。
そして、互いに驚いた。
そこにいたのは、亡き父の兄の研二さんの長女である未実さんだったのだ。
「あれ? お知り合いだったんですか?」
僕と未実さんの反応を見て、長須根さんはいつも通りのゆっくりとした口調で言った。
「うん、美歌さん、よくは知らないけど、知っている人だった。ありがとう。じゃあね」
未実さんは僕には会釈をしただけで、何も話さずに店を出て行ってしまった。
「あ、あの、未実さん……」
長須根さんは何がどうなっているのかわからないようで、僕の顔を見たり、出て行った未実さんを追いかけようとしたりと随分混乱していた。
未実さんと入れ違いでドヤドヤとお客さんが入って来たので、僕らはその対応に追われた。
そして、一段落して、長須根さんに理由を説明した。
長須根さんは驚いてしまい、目を見開いたまま、しばらく瞬きも忘れていた。
「すみません、先輩。私、余計な事をしたみたいで……」
長須根さんが涙ぐんで頭を下げたので、僕は、
「長須根さんは何も悪くないよ。僕と未実さんがいとこだなんて思わないだろうし」
妹会の原則として、相手が教えたくない事を無理に訊き出したりしてはいけない事になっているそうだ。
だから、未実さんは名前だけ名乗り、名字を教えなかったらしい。
「でも、未実さん、どうして先輩達とわかり合おうとしないんでしょうか? すごく優しい人なのに」
長須根さんには、僕が話した未実さんの態度が信じられないそうだ。
初めて妹会で会った時、長須根さんのお兄さんが亡くなっているのを知り、泣いたそうなのだ。
僕にしてみれば、その話が驚きだった。あの未実さんが泣く姿がちょっと想像がつかないのだ。
その時、まるで狙い澄ましたかのように姉から電話がかかって来た。
「はい」
何故か警戒するような声で出てしまった。
「どうした、何かあったのか?」
姉の声は訝しそうだ。それはそうだろう。
「いや、そうじゃないんだけど、さっき未実さんと偶然会ったから」
「え?」
姉が停止してしまったのがわかった。
未実さんが一体何しに来たのか考えているのだろうか?
「お前、今どこにいるんだ? 未実さんが大学まで行ったのか?」
姉は自分が仕事始めだから、僕がまだ年始休暇だと忘れてしまっているようだ。いかにも姉らしい。
「違うよ。大学は明日まで休みだよ、姉ちゃん。今日はバイトなんだよ」
僕は教え諭すように言った。すると姉はバツが悪いのか、いきなり話題を変えて来た。
「で、偶然てどういう事だ? 未実さんはお前がそこにいるって知らないで来たのか?」
「うん。長須根さんに会いに来たらしいよ」
僕は経緯を簡単に説明した。
「で、お前は未実さんと話したのか?」
姉の口調は刑事のようになって来ている。ちょっと怖い。
「話してないよ。長須根さんとシフトが違って、午後からだから、帰って行く未実さんと会っただけで、会釈程度しかしてないよ」
僕は何も後ろめたい事はないので、澱みなく説明できた。
すると姉も何故電話をして来たのか話してくれた。
一年先輩の沖永未子さんも未実さんと話をして、僕達との事を聞いたのだそうだ。
そして、未実さんの気持ちを解きほぐすために、未実さんが大好きなお兄さんの須美雄さんに会うという。
何故か、姉も一緒に行くらしい。
「ふーん。で、どうして姉ちゃんも行くの?」
僕は別に深い意味もなく尋ねたつもりだったのだが、
「何でよ? 姉ちゃんが行っちゃいけないっていう法律でもあるの?」
小学生みたいな返しをされた。何で怒り出したのだろうか?
「そ、それはないけど……」
僕は狼狽えてしまった。そして、
「ごめん、休憩時間終わったから」
逃げるように通話を切った。
それにしても、未実さん、お兄さんが大好きだったんだ。
ようやく突破口が見えて来たかな。
僕は不思議そうな顔をしている長須根さんに理由を説明して、仕事を再開した。
今度こそ、うまくいきますように。