その二百四十四
僕は磐神武彦。大学三年。
いよいよ、懸案であった亡き父との実家との和解に向けての訪問。
同じ敷地に別棟の住居というちょっと怖い状態に一抹の不安を覚えた。
しかし、もう進むしかない。
そして何より、父の兄の研二さん、つまり、僕にとって伯父さんに当たる人の長男である須美雄さんが尽力してくれて、今日の対面になったのだから、逃げるという選択肢は存在しないのだ。
僕達が通されたのは、祖父母が暮らしている建物の方だ。
「ようこそ、皆さん」
姉と姉の夫である憲太郎さんと母は二度目だが、僕は初めてだ。
「お義父さん、お義母さん、お久しぶりです」
母は目を潤ませて挨拶した。僕達も慌てて挨拶した。
「ちょっと失礼」
須美雄さんは先に奥へ行った。すると祖母はそれを見届けてから、
「須美雄がいなかったら、私達はここを出なければならなかったわ」
祖父母は、僕達に二度と会わないと約束させられ、その後でウチに来て、謝罪したのだ。
だから、その事を言っているのだろう。
それにしても、伯父さんの奥さんの依子さんとは一体どういう人なのだろう?
「本当にありがとう。きっと尊も喜んでいると思うよ」
祖父も目を潤ませている。何だか僕も泣きそうだ。
「さ、奥へどうぞ」
須美雄さんが戻って来て告げた。姉と憲太郎さん、母と僕は目配せし合って、廊下を進んだ。
「本日はわざわざのお運び、ありがとうございます」
居間に入ると、伯父さんと依子さんと思われる人が深々と頭を下げた。
僕達は完全に面食らってしまった。
伯父さんは、父とはあまり似ていず、でっぷりとした人だ。目許や眉の形が少しだけ父に似ているかも知れない。
そして、依子さんは、細身でショートカット。髪を栗毛色に染めていて、年齢より若く見える気がする。
恐らく、母と同年代、あるいは何歳か上なのだろうけど。
「立ったままでは何ですから、おかけください」
須美雄さんが微笑んで言ってくれた。居間には大きなソファがあり、僕達四人は一つのソファに悠々と並んで座れた。
ガラスのテーブルを挟んだ向かいに、伯父さんと依子さん、そして須美雄さんが座り、祖父が両端にある独りがけの椅子に座る。祖母はお茶の用意をしていた。
やっぱり、さっき別棟の二階にいた須美雄さんの妹さんである未実さんは来ていないようだ。
ますます嫌な予感がして来た。
「お義兄さん、お義姉さん。今まで大変申し訳ありませんでした」
母は不意に立ち上がって頭を下げた。姉と僕はハッとして母を見上げた。
驚いたのは僕達だけではない。祖父母は勿論、伯父さんも依子さんも目を見開いていた。
「元はと言えば、私と尊さんが駆け落ち同然で結婚して、不義理を働いたのが発端です。お義兄さんとお義姉さんに頭を下げていただくなんて、とんでもないです」
母は泣いていた。それを見て姉も涙ぐんでいる。祖母も泣いていた。
「珠世さん……」
伯父さんが口を開いた。そして、
「いや、その事に関して言えば、それ以前に同居を口にしてひっくり返したのは私だから、その話はもうなしにしよう。堂々巡りになってしまうから」
微笑んで言ってくれた。母は涙を拭いながら伯父さんを見て、
「ありがとうございます、お義兄さん」
「本当にごめんなさい、珠世さん。折りを見て、尊さんのお墓にも行かせてください」
依子さんも涙ぐんでいた。
「はい」
母は嬉しそうに頷き、依子さんを見た。僕は姉と顔を見合わせてホッとした。
「あの」
姉が探るような目で須美雄さんを見る。須美雄さんも姉が何を尋ねたいのかわかったらしく、
「未実は今来ますので」
苦笑いにも見える笑みを浮かべ、ソファから立ち上がり、居間を出て行った。
「未実はどうしたんだ?」
伯父さんが小声で依子さんに尋ねている。依子さんは言い辛そうな顔で、
「それが……」
言い淀んでいた。更に嫌な予感だ。
姉は心配そうに憲太郎さんを見た。憲太郎さんは姉に何か囁き、肩を軽く叩いた。
緊張で、口の中がカラカラになってしまったので、祖母が淹れてくれたお茶を飲んだ。
熱かったけど、それでも飲まずにはいられなかった。
茶碗をテーブルに戻した時、須美雄さんが未実さんを伴って戻って来た。
「いらっしゃいませ」
未実さんは綺麗な人だけど、愛想の欠片もない表情だ。そのまま、須美雄さんの隣に腰掛けた。
「未実」
須美雄が未実さんを促した。すると未実さんは不満そうな顔で立ち上がった。
「この前も言ったけど、よくウチに来られたわね。あれだけの迷惑をかけて、ごめんなさいって、頭を下げればそれですむと思っているの!?」
その口から出て来たのは、予想していたとは言え、聞くに堪えない言葉だった。
姉と憲太郎さん、そして母は、前回も未実さんに悪態をつかれたので、僕ほどは驚いていない気がした。
「未実!」
須美雄さんも現場にいなかったので、未実さんの反応に驚いているようだ。それが普通の反応だろうけど。
「未実、お前、何て事を……」
伯父さんが窘めようとすると、未実さんは、
「何よ、お父さんもお母さんも、お兄ちゃんに言われたから、掌返しちゃって! 本当は許してなんかいないくせに!」
未実さんの声は最後は絶叫だった。彼女は居間を飛び出してしまった。
未実さんの言葉はもしかすると本当の事なのかも知れない。
伯父さんも依子さんも俯いてしまい、僕達を見ようとしないからだ。
須美雄さんはしばらく唖然としていたが、
「未実!」
ソファから立ち上がって未実さんを追いかけようとした。すると依子さんが、
「私が行くわ、須美雄」
そう告げて居間を出て行った。この空間にいるのが堪えられなかったのだろうか?
須美雄さんはまたソファに腰を下ろして、
「こんな事になって、本当に申し訳ありません。妹は必ず説得しますから」
須美雄さんは顔面蒼白だった。すると母が、
「いいんですよ、須美雄さん。貴方のお陰で、ここまで来られたのですから。今までの止まっていた時間に比べれば、動き出した時間はまだまだ短いんです。ゆっくりいきましょう」
それを聞いて、姉が頷いた。
「須美雄、今度はお父さんも手伝うから、未実とじっくり話をしよう。あの子は誤解しているんだよ」
伯父さんまでもがそう言って、須美雄さんを宥めた。
「ああ、ありがとう、お父さん」
須美雄さんは力なく微笑んで応じ、スッと立ち上がると、
「本当に申し訳ありませんでした!」
腰が折れるのではないかというくらい深々と頭を下げてくれた。
僕達は、それ以上長居をしても、須美雄さんを追いつめるだけだと判断し、お暇した。
「須美雄さん、ショックだったみたいね」
姉が駅に着いた時にぽつりと言った。
「そうね。全部うまくいくと思っていたのだろうから」
母も悲しそうに応じた。
「須美雄さんは、未実さんには不安があったみたいだけど、未実さんが依子さんと伯父さんの本音を暴露するような事を言ったのがショックだったと思うわ」
姉は自分の事のようにションボリしている。
「須美雄さん一人に頼ってしまった僕達も悪いのかも知れないね。焦らず、ゆっくりいくしかないよ」
憲太郎さんは姉の肩を抱いて言った。
やっと綺麗に片づくかと思ったのに、つくづくうまくいかない事ってあるものだなあと痛感した。