その二百四十三
僕は磐神武彦。大学三年。
いよいよ教員採用試験に向けての試験勉強を始めた。遠く長い道のりだが、何としても乗り切りたいと思っている。
そんな時、父方の実家との蟠りを解消するために動いてくれていた従兄の須美雄さんから、姉に連絡があった。
須美雄さんが、蟠りの中心的存在であるお母さんの依子さん、そして妹の未実さんを説得してくれたらしい。
姉はまだ完全に安心したつもりはないようだが、僕はホッとした。
亡き父が教員だったから、教員になりたいと思い、なろうと決断した。
その父の実家とうまくいっていないのは、やりきれなかったのだ。
須美雄さんには一度も会った事がないし、何故か母も姉も何も教えてくれない。
だから、どんな人なのかわからないが、信じる事にした。
「武彦、何て言って送り出したらいいかわからないけど、いい方向に向かう事を祈ってる」
彼女の都坂亜希ちゃんが、約束の日の日曜日の朝、玄関まで来てくれた。
「ありがとう、亜希」
僕は母の視線を気にしながら、笑顔で応じた。
亜希ちゃんに見送られ、出発した。
「武彦、亜希ちゃんは絶対に逃がしちゃダメよ」
母が、手を振っている亜希ちゃんを見て、小声で言う。
「亜希ちゃんは逃げたりしないよ、絶対に」
そう返すと、
「あらあら、ご馳走様」
母はニヤリとした。何か言い返したかったが、グッと堪えた。
姉と憲太郎さんとは駅で落ち合う事になっている。
「そう言えば、須美雄さんてどんな人なの?」
僕は何気なくそう切り出した。すると母は、
「何よ、さっきの仕返し、武彦?」
何故かムッとした顔で睨まれた。
「仕返しって、何言ってるのさ。只知りたいから訊いただけなのに」
僕はどうして母が睨んだのかわからなかったので、不思議に思って言った。
すると母は急に笑い出し、
「ああ、そう、そうなの。あはは、そういう事なの」
何故か目を泳がせた。ますます意味がわからない。
結局、僕は母から須美雄さんの事を聞き出せないまま、駅に着いた。
「おはよう」
ホームで姉達と合流した。ちょうど電車が来たので、乗り込みながら挨拶した。
「おはようございます」
姉のお腹は服の上からもわかるくらい膨らんでいる。
予定日は三月だと聞いているが、随分大きくなったと思った。
「姉ちゃん」
僕は母が憲太郎さんと話している隙にと思い、姉に声をかけた。
「何?」
妊娠して人格が変わったのか、それとも幸せいっぱいで心に余裕があるのか、姉はあまり見せた事がない笑顔で僕を見た。
「須美雄さんの事を母さんに訊いても、教えてくれないんだ。どんな人なの?」
「え?」
姉は何故かビクッとした。何だ、そのリアクションは?
「そんなの、会えばわかるよ」
そう言うと、逃げるように憲太郎さんのそばに行き、シートに座ってしまった。
何か妙だ。母の態度も姉の態度も、納得がいかない。
何かある。何となくそう思った。
やがて、父の実家の最寄り駅に到着し、僕らは電車を降りた。
憲太郎さんは姉を気遣いながら階段を上り下りした。
亜希ちゃんがいなくてよかった。また何か言われそうだもんなあ。
駅前の通りを左に折れると、家並みが見えて来る。
どれもこれも大きな家だ。所謂高級住宅地だろう。
「ああ、あれだね」
憲太郎さんが思い出したのか、前方に見えて来た白い壁の大きな家を見て言った。
姉と母が同時に唾を呑み込む音が聞こえた。
何故か僕は冷静だ。母と姉は一度未実さんに会っているから、嫌な事を思い出したのかも知れない。
駅に着いた時、姉が須美雄さんに連絡したので、男の人が門扉の外で待っていた。
そう言えば、電話をかけた時、姉は妙に嬉しそうで、憲太郎さんは不満そうな顔をしていたのは何故だろう?
その人は憲太郎さんとは違って、細身だけど、背が高くてキリッとした顔をしている。
あれ? どこかで見た事があるような……。
「お待ちしていました」
その人は爽やかな笑顔で言った。憲太郎さんも初対面なので、姉に小声で何か訊いている。
「美鈴さんのご主人の憲太郎さんですね。須美雄です。今日はわざわざいらしていただき、ありがとうございます」
須美雄さんが右手を差し出したので、憲太郎さんは慌てて右手を出し、握手した。
「こちらこそ、お手を煩わせてしまい、申し訳ありません」
それから、須美雄さんは僕を見た。
「武彦君だね? 叔父さんによく似ているから、すぐにわかったよ。今日はありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございます」
僕はようやく須美雄さんが誰に似ているのかわかった。父だ。アルバムの写真の父にそっくりなのだ。
だからなのか、余計ホッとした。もう絶対に大丈夫だと思った。
父にそっくりな須美雄さんなら、きっとうまく収めてくれたはずだ。
ちょっと意味不明な根拠だけど。
「では、中へどうぞ」
門扉は二つあるのだが、須美雄さんが押し開けたのは「磐神幸彦」と書かれた表札の方だった。
要するに、僕らの祖父母の方の家だ。
二世帯住宅なのかと思ったが、建物は完全に独立していた。同じ敷地に家が二軒建っている感じだ。
それに気づいて、少しだけ嫌な予感がしてしまった。
それから「磐神研二」、つまり、伯父さんの名前の表札がかかっていた家の二階の窓から、女の人がこちらを見ているのにも気づいた。
恐らく、未実さんだろう。その目はまさに射殺そうとしているかのようなものだった。
未実さんは僕が見たので、スッと視線を知らし、奥に行ってしまった。
楽天的な事を考えていたけど、一気に嫌な汗が出て来てしまった。