その二百三十九
僕は磐神武彦。大学三年。
小さな事件はあれこれ起こったが、そこそこ順調な毎日を送っている。
姉も体調はいいようで、まだ出勤しているらしい。
「私は出産予定日まで働くから」
そんな事を夫である憲太郎さんに言い、憲太郎さんを驚かせたようだ。
「そこまでしなくてもいいよって言ったけど、頑固でさ」
先日、大学からの帰り、偶然営業先から帰る憲太郎さんと会った時に聞いた。
「身勝手な姉ですみません」
僕は本当に申し訳なく思って詫びた。すると憲太郎さんは爽やかに笑い、
「いや、武彦君が謝る事ではないよ。美鈴も周りに心配かけまいと必死なんだと思うから」
するとそれを聞いた彼女の都坂亜希ちゃんが、
「憲太郎さんは、美鈴さんが出産したら、育児休暇をとるんですか?」
その質問に僕はギクッとしてしまった。何故なら、亜希ちゃんは憲太郎さんに質問しているのに、僕をチラッと見たからだ。
嫌な汗が出そうだ。憲太郎さんは亜希ちゃんを見て、
「僕は、社長である親父の手前、率先して休暇をとらないとまずいんだよ。福利厚生面が充実しているのを示さないといけないからね」
うわ、何だか耳が痛くなりそうな答えだ。亜希ちゃんはまた僕をチラッと見た。
「そうなんですか。大変ですね」
憲太郎さんは苦笑いして、
「そうでもないよ。姉貴に隆久が生まれた時ですら、もう毎日顔を見に行きたい衝動に駆られたくらいだから、自分の子供だと、もっとそれが酷くなりそうな気がしているんだ」
憲太郎さんて、子供好きなんだと改めて知った。
それからしばらく雑談して、お互いに先を急がないといけない事を思い出し、立ち話のままで別れた。
「心配だなあ」
亜希ちゃんが急にそんな事を言い出した。僕はまたビクッとして、
「え? 何が?」
亜希ちゃんは何故か赤面し、
「ううん、何でもない」
ギュッと腕を組んで来た。おお、また亜希ちゃんのアレが……。
「な、何でもないって顔してないよ、亜希」
僕は腕に柔らかいものを感じながら言ってみた。すると亜希ちゃんは、
「武彦の意地悪」
そう言いながらも、理由を話してくれた。
「美鈴さんに赤ちゃんが生まれたら、武彦も会いたくて毎日通っちゃうのかなって思ったの」
亜希ちゃんはますます顔を赤らめた。可愛い。可愛過ぎるよ、亜希ちゃん。
「通うまでもなく、姉ちゃんは実家に戻って来て、僕に育児を押しつけるかも知れないよ」
これは冗談のつもりではない。かなりの確率で実際に起こりうる事なのだ。
「それ、いいじゃない。私も勉強になるし、武彦も勉強になるわ」
亜希ちゃんは凄く嬉しそうに僕を見て言った。そうかなあ。
納得しかねたのだが、バイトの時間が迫っていたので、亜希ちゃんと別れを惜しんでから、別々のホームへと進んだ。
姉が実家に戻るのはまず間違いない。育児を押しつけられるのも、ほぼ確定だろう。
問題はいつまでそれが続くかなのだ。只、亜希ちゃんのように考えれば、いい機会なのかも知れないけど。
そして、亜希ちゃんと僕が結婚して、などと妄想してしまい、顔が熱くなるのを感じた。
コンビニに着くと、もう時間がギリギリで、僕は慌てて着替えをすませ、業務に就いた。
幸い、と言っては店長に申し訳ないのだが、客が来ていなかったので、混乱はしなかった。
フェイスアップや商品の補充、床掃除をしながら、レジにも気を配っていると、見た事がある人が入って来た。
母の高校時代の同級生にして、今はボーイフレンドと言っても差し支えがない日高建史さんの次女である実羽さんだ。娘の皆実ちゃんも一緒だ。
「たけくん、こんばんは」
相変わらずオシャマな皆実ちゃんは小首を傾げて挨拶して来た。
「今晩は、皆実ちゃん。今晩は、実羽さん」
僕は微笑んで二人に挨拶した。皆実ちゃんはニコニコしているのだが、実羽さんは深刻な顔をしていた。
「武彦君、仕事が終わったら、悪いけどウチに来てくれないかな」
「え?」
僕は嫌な予感がした。皆実ちゃんが言った謎の言葉、
「だって、ジイジもおよめさんをもらうんだよ」
それを思い出してしまったのだ。あの事以外で、実羽さんがここに来る理由がない。
「この前は、皆実の聞き違いだと思ったんだけど、また同じ事を言ったのよ、父が。酔っていた時だから、本気なのかはわからないけど、心の片隅にはそういう気持ちがあるってことだから……」
実羽さんは動揺しているようだ。それは僕も同じだった。
「今日は父がウチに来ているの。だから、貴方から父に問い質して欲しいのよ。どこまで本気なのか」
「ええ!?」
実羽さんの申し出はあまりにも突拍子がなかった。
「最初はさ、貴方のお姉さんに話そうかと思ったんだけど、お姉さん、妊娠しているんでしょ? だから、貴方にお願いに来たの」
実羽さんは真剣な表情だ。からかっている様子は微塵もない。
「また私が嘘吐いてるって思ってるの、武彦君?」
実羽さんが悲しそうな顔をした。ドキッとしてしまった。
「そんな事は思っていませんけど。どうして、僕なんですか? 実羽さんが問い質せばいいのでは?」
僕は何とかこの難局から逃れたかったので、尋ねた。すると実羽さんは溜息を吐き、
「私や姉さんでは、惚けられちゃうのよ。貴方には父も本当の事を話すと思うの。だから、お願い」
潤んだ目でそんな事を言われると、更にドキドキしてしまう。
「おねがい、たけくん」
皆実ちゃんは意味がわかっていないのだろうが、お母さんが困っているのは感じているのだろうか?
同じく真剣な顔で言った。
どうしよう? 僕は考え込んでしまった。