その二百三十七(姉)
私は力丸美鈴。
とうとう念願の妊娠。夫の憲太郎君とリオ五輪を目指すための一つのハードルをクリアした。
あちこちで祝福を受ける中、気になっていた事がある。
愚弟の武彦だ。
母に妊娠を告げて、実家にはもう伝わったと思ったのがまずかった。
憲太郎君には早く連絡するように言われたのだが、何となく気まずくてできなかった。
母に伝えてくれるように言うと、
「直接言いなさいよ。あんた、何度同じ事をするの」
私は、憲太郎君との同居を決めた時も、武彦にだけ言いそびれていた。
だから、母には冷たく突き放された。
どうしようと思っているうちに、武彦から連絡があった。
これ幸いと猫撫で声で出て、謝った。途中から武彦の声が呆れている感じになったが、気にせずに猫撫で声を続けた。
それにしても、亜希ちゃんルートから伝わるとは思わなかったなあ。
病院で会ったアニメ声の女の子が亜希ちゃんの親友の一人だったなんて、武彦に言われるまで思い出さなかった。
今度会ったら、謝ろう。謝ってばかりだな……。
予定では、三月上旬に出産。
親友の美智子の子と辛うじて同級生になれそうだ。美智子に連絡したら、
「さすが美鈴だね。今から楽しみね」
嬉しそうに言ってくれた。
「何としても、無事出産しようね」
私は美智子と励まし合う事を誓った。
昔に比べれば、出産の危険性は低くなったらしいが、それでも完全に安心という訳ではない。
新しい命の誕生は、まさに奇跡の連続なのだから。
「こんにちは」
完全に油断していた。ハッとして、声の主を見ると、愚弟の過ぎた彼女の都坂亜希ちゃんだった。
「こんにちは」
私は苦笑いして応じた。亜希ちゃんはきっと武彦から聞いているだろうから、私がまたやらかした事を知っているだろう。
だが、武彦と違って、亜希ちゃんはそんな事を私に訊いて来る事はない。
ところが、だ!
「美鈴さん、どうして、武君に妊娠している事をすぐに伝えてくれなかったんですか?」
立ち寄ったカフェでいきなり訊かれてしまった。まさしく晴天の霹靂だった。
私の思い違いでなければ、亜希ちゃんは怒っているようだ。
嫌な汗が出た。多分、亜希ちゃんはこの前の事も覚えているだろうから、それも合わせての怒りなのかも知れない。
どちらも完全に私が悪いのだから、言い訳はしない。
「ごめん。同居の件は、私が言う事ができなくて、武を傷つけちゃったけど、今度は完全にうっかりしてたの。だから、余計悪いよね」
私は亜希ちゃんに罵られる覚悟で嘘偽りなく告げた。すると亜希ちゃんは大きく溜息を吐いて、
「美鈴さんはもっと優しい人だと思っていたのですが、そうではなかったんですね。武君がどんなにお姉さんの事を好きなのか、全然わかっていないのですから」
私は頭をガンと殴られたような衝撃を受けた。
「今でも武君にとっていつも一緒にいる私より、美鈴さんの方が大きい存在なんです。それは美鈴さんが憲太郎さんと同居しても、結婚しても変わっていません。悔しいですけど」
わわ! 亜希ちゃん、涙ぐんでいる。まずい……。
「そうだね。私、憲太郎と同居するようになって、武彦が連絡を寄越さなくなったって考えていたんだけど、私が壁を造っていたんだね。もうお互いベッタリなのは卒業しようと思って。でも、それは間違いだった。姉と弟はどこまでいっても姉と弟。別々に暮らそうが、結婚しようが、その関係は変わらないんだよね」
私もいつの間にか、涙ぐんでいた。
「けじめを着けるのと、関係を稀薄にするのとは意味が違うよね。ありがとう、亜希ちゃん。もう少しで私、とんでもない間違いをするところだった」
私は亜希ちゃんの両手を包み込むように握って感謝した。
「私こそ、只の嫉妬で酷い事を言って申し訳ありません」
亜希ちゃんの綺麗な二つの瞳から真珠にも勝る涙が零れた。
「何言ってるの。亜希ちゃんがいてくれるから、私は安心して結婚できたのよ。あのバカが途方に暮れなくてすむと思ったから」
私も泣いていた。周囲のお客やカフェの従業員がびっくりして見ているのも構わずに。
「ありがとうございます、美鈴さん」
亜希ちゃんは涙を拭いながら微笑んだ。
「早く『お義姉さん』て呼ばれたいな」
そう返すと、亜希ちゃんは顔を赤らめた。可愛いなあ。
毎度毎度思うんだけど、武彦にはもったいないよなあ。
「あ、そうだ。順番が逆になってすみません」
亜希ちゃんはバッグの中からラッピングされた紙袋を取り出した。
「これ、武君と私からのささやかなお祝いです。赤ちゃんが生まれたら、もう少し奮発しますから」
亜希ちゃんは照れ臭そうにそれを渡してくれた。
「ありがとう、亜希ちゃん」
後で直接武彦にお礼の連絡しないとね。また亜希ちゃんに怒られちゃうから。
「妊娠五か月目の戌の日に巻いてくださいね」
中身は腹帯だそうだ。犬は多産でお産が軽い事にちなんでいるらしい。
亜希ちゃん、私より詳しいんじゃないだろうか?
「本当にありがとう」
私は感動してしまった。すると、
「私も美鈴さんに勉強させてもらいますので」
亜希ちゃんはまた顔を赤らめた。なるほど、自分の時のためにって訳か。
うわ、そうすると、武彦と亜希ちゃんが結婚? いや、そうと決まった訳では……。
ああ、いやいや、そんな縁起でもない事を考えたら、お祝いをくれた二人に失礼ね。




