その二百三十五(亜希)
私は都坂亜希。大学三年。
彼の磐神武彦君とは順調。
進路の事も、着実に進んでいる。
母は看護師だったけど、私は福祉系の職業に就くために日々調べ物をしている。
武君は亡くなったお父さんが教員だったので、自分も教員になろうと勉強をしている。
教員になるには、たくさんのハードルをクリアしなければならないから、私もできるだけ応援したい。
そう思っている。
だって、武君のような人にこそ、先生になって欲しいから。
武君は中学生の時、虐めに遭っていた。だからこそ、人の痛みがわかる。
私、お姉さんの美鈴さん、お母さん、そして多くの人達の気持ちを考えて行動できる人。
武君にはピッタリな職業。それが教職だと思う。
武君は私達が卒業した高校に教育実習の内諾を得た。
ついこの間まで自分達が授業を受けていた高校に先生の卵として行く事になるなんて、武君も想像しなかっただろう。
私もそうだ。
早く教壇に立つ武君を見てみたい。そしたら、その後、私は武君と……。
そこまで想像して、顔が火照るのを感じた。
この前、武君に、
「だから、必ず結婚しようね」
そう言われ、夢を見ているのではないかと思った。でも夢ではなかった。
プロポーズっていうものではなかったけど、武君は私が焦っているのに気づいてそう言ってくれたのだ。
そんな武君が大好き。
大学での授業も滞りなく終え、いつものように武君と駅で手を振りながら別れた。
その時、携帯が鳴った。
相手は高校の同級生だった天野小梅ちゃんだった。
「お久、亜希」
「久しぶりね、小梅ちゃん」
私は声優を目指して頑張っている彼女の透き通るような声を聞いて応じた。
「今、大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。どうしたの?」
小梅ちゃんの妙な質問に首を傾げて尋ね返した。
「うん、別に変な事じゃないと思うんだけどさ。昨日、従姉が出産したので、病院に行ったのよ」
「それで?」
おめでたい事なのに小梅ちゃんの声は何故か暗い。ますます変に思ってしまう。
「いや、余計な情報を亜希に伝えて、磐神君の立場が悪くなると困ると思ってさ」
「どういう事?」
小梅ちゃんは自分だけで内容を理解しているので、全然どういう事かわからない。
「そこでさ、磐神君のお姉さんに会ったの」
「美鈴さんに?」
美鈴さんが病院に? もしかして……。ピンと来た。
「うん。私は一度しかお会いした事がなかったけど、モデルさんみたいに綺麗な人だったからよく覚えていたの。でも、お姉さんは悲しい事に私を覚えていてくれなくて……」
話が反れていきそうなので、
「小梅ちゃんの愚痴なら後にしてね」
ちょっと皮肉っぽく釘を刺した。
「あはは、違うって。そこは話の流れってだけよ。お姉さんもすぐに思い出してくれたからさ」
小梅ちゃんは慌てて言い繕って来た。私もそれ以上は突っ込まない。
「お姉さん、赤ちゃんができたみたいで、凄く嬉しそうだったよ」
「そうなんだ。で、どうして武彦の立場が悪くなるの?」
そこは疑問だったので尋ねてみた。高校時代から、小梅ちゃんは要点がよくわからない話をする事が多かったから。
「亜希は磐神君からその話を聞いてないんでしょ?」
小梅ちゃんの心配していた事がわかった。私が武君を責めると思ったようだ。
どうも、中学の時からの親友である須佐(旧姓:櫛名田)姫乃ちゃんを始め、私と武君の事を知っている女子には、私がもの凄く嫉妬深いと思われている。
嫉妬深くないとは言わないけど、そこまで気を回される程ではない。
「聞いてないけど、それがどうして武彦の立場を悪くするのよ、小梅ちゃん?」
ムッとしてしまった私は少し強い口調で言った。小梅ちゃんはまた慌てた様子で、
「ああ、そういうつもりじゃないんだよ、亜希。只さ、順番が逆だと、いろいろと不都合な事ってあるでしょ?」
言いたい事はわかった。別に武君が美鈴さんの妊娠を私に話さなかったとしても、責めるつもりなんかない。
「小梅ちゃん、私、武彦を責めたりしないわよ。心配し過ぎよ」
「そ、そうなんだ。だったら、よかった。ごめんね、変な事言って」
小梅ちゃんの声はまだ上擦り気味だった。
私はまた皆で会おうと約束して、通話を切った。時刻を見ると、まだ武君はコンビニに到着していない時間だ。
ようやく最寄り駅に着いた頃だろう。
責めるつもりはないが、おめでとうは言っておこうと思った。
あれ? 美鈴さんに先に言った方がいいかな? でも、まだ仕事中かも知れないし。
ホームの端に行き、武君に電話した。
「はい」
武君は嬉しそうに出てくれた。どんな用だと思ったのだろう?
「武彦、何か忘れている事ない?」
少し遠回しに言ってみた。
「え? 忘れている事? 来週の日曜は別行動の日で、フィギュアを買いに行くのは言ったよね?」
武君は全然違う事を言い出した。惚けている様子はない。忘れてしまうには時間が早過ぎる。
私は逆の事を想像してみた。これはまずい……。
もしかして、武君は美鈴さんから妊娠した話を聞いていないのではないだろうか?
だとすれば、それは武君にとってショックかも知れない。どうしよう?
私は武君が考え込んでいる時間を利用して、思いを巡らせた。
「高校の同級生の天野小梅ちゃんが、美鈴さんを病院で見かけたらしいの。どこか具合が悪いんじゃないかって思ったんだけど、違う?」
「え?」
武君の声は演技でも何でもなく驚いているのがわかった。やっぱり、何も知らないんだ。
「で、電話してみるよ。ちょっとごめん」
武君は通話を切った。それにしても、直前に気づいてよかった。
以前、美鈴さんが家を出る事を武君に告げられなくて、武君がひどく傷ついたのを知っているから。
美鈴さん、どうして武君に言ってないのかしら? ちょっと心配になった。
電車がホームに滑り込んで来た時、武君から返事が来た。私は歩みを止めて通話を開始した。
「姉ちゃん、酷いんだよ。僕にだけ教えてくれてなくてさ」
武君は口ではそう言いながらも、美鈴さんの妊娠を喜んでいるのが伝わって来る声で話している。
「そうなんだ」
私は何も知らないふりをするのは気が引けたが、そうするしかなかった。
「私が妊娠した時は、もっと喜んでくれる?」
我ながら凄い事を訊いてしまったと思う。でも、訊かずにはいられない程、武君は嬉しそうだったのだ。
「も、も、もちろんだよ」
携帯を落としそうになった武君が動揺しながら答えてくれている姿を想像して、泣き笑いしてしまった。
ごめんね、嫉妬深い彼女で。
でも、貴方の事が大好きなんだから、仕方がないんだよ、武君。