その二百三十三
僕は磐神武彦。大学三年。
長い夏季休暇ももうすぐ終わる。
そして、社会人に向けての第一歩を先日踏み出した。
手遅れだと思われた母校への教育実習の申し込みが受け入れられたのだ。
僕はすぐに大学に連絡し、その旨を伝え、手続きの詳細を尋ねた。
今までは漠然とだったけど、ここまで来ると実感ができる。
いよいよ、亡き父と同じ教員になるために進み始めたのだ。
父は小学校の教員で、僕は高校の教員。
目指す先は違っても、志は同じつもりだ。
「あんたはすぐに自分だけであれこれ悩むけど、そういうのってダメだよ。学校の先生は精神的なストレスが大きいんだから、悩みがあったらすぐに姉ちゃんに相談しなさい」
何故か上から目線で姉に言われた。本当は、彼女の都坂亜希ちゃんがカウンセリング関連の勉強もしているので、悩んだら亜希ちゃんに一番に相談するつもりだが、
「わかったよ。ありがとう、姉ちゃん」
僕も伊達にこの特殊な人の弟を長年して来た訳ではない。その辺りの立ち回り方は心得ているつもりだ。
「私は美鈴さんが開けた穴を全部は難しいけど埋める」
そう言っていた亜希ちゃんの優しさに報いるためにも、僕は姉依存症を克服しなければならないのだ。
「ああ、でも憲太郎の事でいっぱいいっぱいになるかも知れないから、できるだけ亜希ちゃんに相談してね」
姉からそう言われた時、もしかして超能力者になったのかと思った。
「うん、そうだね。姉ちゃん、忙しいから大変だよね」
姉の機嫌を損ねないように気を遣いながら応じた。
僕は今、夏休み最後のデートをするため、亜希ちゃんと電車で移動中だ。
亜希ちゃんはノースリーブの白のワンピースを着ていて、いつもはポニーテールにしている長い髪を下ろし、顔の左側にまとめておさげ髪のようにしている。
ちょっと色っぽいと言うか、大人の雰囲気だ。
今日は遊園地とかプールではなく、大きな映画館に行く。
僕は気恥ずかしいのだけど、観るのはアメリカの恋愛映画。
確か、恋人が不治の病で余命僅かなのを知った男性が自分の思いつく限りのデートプランを練り、最後にたくさんの友人が待つ教会で彼女と式を挙げるという内容だったと思う。
亜希ちゃんがどうしても夏休み最後のデートで観たいと言ったのだ。
亜希ちゃんの願いは何でも聞く事にしている僕は、自分の感情の事は全て忘れる事にした。
予想通り、客席を見渡すと、どこもかしこもカップルばかり。
男同士はもちろんいないが、女の子同士もいなかった。
まるで恋人同士限定のような状態だった。
だから何となく異様な雰囲気がした。
上映時間が来て、灯りが落ちると、あちこちで抱き合う人達がいた。
僕と亜希ちゃんは席の中央にある通路からすぐの席に座っているのだが、通路の向こうの席はこちらからは丸見えで、恋人同士の睦み合いが見えてしまっていた。
「武彦」
亜希ちゃんが耳元で囁き、手を握って来る。僕は迷わずに握り返した。
亜希ちゃんがこの映画を選んだ時から、心の準備はして来たつもりだ。
「私の方から仕掛けないと、武彦は何もしてくれないんだもの」
何度もそういう事を言われた。だから、今日は僕からいく。そう決めていた。
「亜希」
僕は亜希ちゃんに顔を近づけた。亜希ちゃんは目を瞑っている。
周囲の視線が気になりかけたが、誰も人の事を気にしたりする状態ではないようだ。
そのまま僕達はキスをした。互いの舌で唇を分け入り、絡め合う。
「亜希」
「武彦」
一度離れ、互いを見つめ合う。
「嬉しい。武彦から来てくれて……」
亜希ちゃんの目が潤んでいる。薄暗がりの中のせいか、より可愛く見える。
「うん」
僕は微笑んで応じ、もう一度キスした。
ずっとそうしていた訳ではないが、亜希ちゃんと手を繋いだままで映画を観たのは初めてだった。
だから、全然ストーリーが頭に入って来なかった。
「武彦?」
映画が終わって場内が明るくなり、亜希ちゃんに声をかけられるまで僕はどこかに行ってしまっていた。
強烈に恥ずかしかった。
「この後、どこに行こうか?」
亜希ちゃんはギュッと腕を絡ませて来た。例のアレが当たって来て、鼓動が高鳴る。
「食事をしながら考えようか」
僕は下調べしておいたイタリアンレストランに亜希ちゃんを連れて行った。
以前、同じバイト先だった神谷伊都男さんに教えてもらった店だ。
「雰囲気いいし、女の子なら絶対に喜ぶよ」
僕の目でも確認した。亜希ちゃんなら絶対に喜んでくれると。
「素敵!」
店の前に着くと、亜希ちゃんはまさしく目を輝かせて言った。想定ないとは言え、嬉しい。
この後、どこに行こうか? そう言われた時、僕はある事を思い出した。
「磐神君はまだお預けなの?」
亜希ちゃんの高校の時の同級生の女子達の言葉だ。
要するにまだその、ええと……。
でも、すぐにその妄想を振り払った。
「どうしたの、武彦?」
注文を終えて、ボンヤリしていると、亜希ちゃんが不思議そうな顔をして僕を見た。僕はバツが悪くかったので、
「亜希がいつもより綺麗なので、見とれていたんだ」
柄にもない事を言って、誤摩化した。
「やだ……」
亜希ちゃんも僕がそんな事を言うとは思わなかったのか、照れていた。
「髪型を変えたよね? だからかな?」
只の言い繕いだと思われないために言い添えた。すると亜希ちゃんの顔がパアッと明るさを増した。
「気づいてくれていたんだ、武彦。何も言ってくれないから……」
その言葉に少しだけ罪悪感を抱いた。確かに最初は気づいていなかったから……。
「でもね」
僕は食事を運んで来たウエイターがいなくなってから、続けた。
「無理しないで、亜希。僕は別に『飢えた狼』じゃないから」
少し冗談めかして、亜希ちゃんの背伸びを指摘してみた。
ワンピースの襟の開き具合、スカートの丈、普段つけない香水を使っている事。
亜希ちゃんが頑張っているのがようやく全部わかったのだ。
「うん……」
怒られるかと思ったが、亜希ちゃんは嬉しそうに微笑み、零れた涙を拭った。
「だから、必ず結婚しようね」
僕は鼓動を高鳴らせながら更に言い添えた。
「うん!」
亜希ちゃんはギュッと僕の手を握って来た。僕も握り返した。
その後、そこから程近い遊園地の観覧車に乗った。
一番上に行った時、もう一度キスをして夏休み最後のデートはフィナーレを迎えた。