その二百三十二
僕は磐神武彦。大学三年。
母の高校時代の同級生である日高建史さんのお孫さんに当たる皆実ちゃんの
「だって、ジイジもおよめさんをもらうんだよ」
その発言が切っ掛けになり、僕は随分動揺してしまった。
皆実ちゃんのお母さんである実羽さんが母に電話を寄越して、その理由を説明したらしいのだが、どうにも腑に落ちない結果だったのが少し引っかかった。
もしかすると、母が日高さんと再婚するのではないかと危惧した。
だが、当事者の一人である母が全面否定をしたのだから、もうそれ以上追求する事はできない。
僕は納得がいかないながらも、忘れるしかないと思った。
それから数日後、バイトに出かけようと玄関で靴を履いていた時、携帯が鳴った。
姉からではない。実羽さんからでもない。
かと言って、彼女の都坂亜希ちゃんからでもなかった。
僕はうっかりしていた。
母校である高校に教育実習の内諾をもらうために連絡を入れていた事をあれこれあったために失念していたのだ。
「おはようございます、先生」
慌てて通話を開始した。相手は在校時にお世話になった先生だった。
「おはよう、磐神。この前の話なんだが」
前置きなく、いきなり本題に入られたので、僕の鼓動は一気に高まった。
先日、教育実習のお願いの連絡をした時、
「本当はもう締め切っている時期なんだが、今年度は申し込みが少なくて、まだ大丈夫だと思う」
そういう返事だった。もしかするとダメかも知れないと含みのある言い方だったので、余計に心配だった。
「はい」
唾を呑み込みそうになるのを我慢して、僕は返事をした。
「不安にさせるような事を言って申し訳なかったが、大丈夫だ。お前なら大歓迎だと他の先生方もおっしゃっている」
その言葉を聞き、不覚にも泣きそうになってしまった。
「ありがとうございます!」
僕は先生に見えないのはわかっていたが、深々と頭を下げた。
「その代わり、必ず教員採用試験を受けろよ。資格取得だけのためとかはしないようにな」
先生の言葉に身が引き締まる思いだ。
「もちろんです。亡くなった父は小学校の先生でした。だから、絶対にそんな事はしません」
「ありがとう、磐神。来年、待ってるぞ」
「はい!」
僕は清々しい気持ちで通話を切り、玄関を出た。
「おはよう、武彦」
亜希ちゃんの家の前まで行くと、亜希ちゃんは日課の水撒きをしていた。
「どうしたの、朝から嬉しそうね?」
さすが亜希ちゃん。僕のほんのちょっとした感情の起伏を読み解いてしまう。
臨床心理士になれるのでは、などと最近読んでいる小説のヒロインを思い浮かべてしまった。
僕は亜希ちゃんにさっきの話を包み隠さず話した。
「そう。武彦、高校の先生になるの」
亜希ちゃんは水撒きを中断して言った。少し意外そうな顔をしているのは何故だろう?
「おばさんが、結構反対していたようだったから、諦めたのかと思っていたけど」
亜希ちゃんは何故かニヤニヤしている。
「母さんは確かに反対していたけど、それは小学校の先生になるのを反対していたってわかったんだよ。さすがに小学校の先生になるには僕はスタートが遅過ぎたから、中学か高校の先生になろうって思ったんだ」
僕は亜希ちゃんに「マザコン疑惑」をかけられた事があるもので、急いで言った。
「そうなの」
亜希ちゃんは微笑んで頷く。僕は苦笑いして、
「それで、中学の時、僕は成績が悪かったから、高校の方がイメージがいいかなと思って、高校に教育実習のお願いをしたんだよ」
すると亜希ちゃんは笑い出して、
「ごめん、ごめん。私、別に武彦の進路に何か言うつもりはないよ。それはお互いにそう決めた事なんだからさ。でも、教えておいて欲しかったな、その事」
「え?」
思わずギクッとしてしまった。亜希ちゃんは怒っている訳ではなさそうだけど。
「昨日、たまたま高校の時の先生に駅で会って、武彦の事を訊かれたのよ」
「ええ?」
何を訊かれたのかと思い、嫌な汗が出て来る。
「磐神から教育実習の申し込みがあったが、就職活動と並行するつもりなのかって」
うわ、そんな情報が既に入っていたとは……。ますます嫌な汗が出て来る。
「だから私は、武彦のお父さんが小学校の先生だったので、昔から先生になりたいと話していたって言っておいたの」
亜希ちゃんのナイスフォローだったのかも知れない。
「ありがとう、亜希。亜希のお陰で、教育実習を受けられるよ」
僕は大袈裟でも嘘でもなく、心の底からそう思って言ったのだが、
「そんな、言い過ぎよ、武彦。それよりごめんね、その事を言わなくて」
亜希ちゃんはスッと僕を庭の中に引き込み、誰も周囲にいないのを確認すると、不意打ちのキスをして来た。
僕はびっくりして硬直してしまった。
「私も、今日は同じ福祉を目指している子と実務の見学に行くの」
「そうなんだ」
手を振って亜希ちゃんと別れ、駅に向かった。
何だか、急に社会人としての自分を思い描いてしまい、また鼓動が速くなった。
今日は気分が高揚していたせいか、時間が過ぎるのが早かったような気がした。
「先輩、お疲れ様です」
経済学部の長須根美歌さんが彼の間島誠君と帰るのを見てそう思った。
「お疲れ様」
そう言えば、僕が上がる時、いつも捨て犬のような目をしていた一年先輩の神谷伊都男さんはもうバイトを辞めた。
内定が出て、その会社に研修も兼ねて行く事になったのだ。
内定をより確実にするための方法らしい。
チャランポランな先輩だったけど、いなくなると寂しいものだ。
「磐神君は就職活動はしているのか?」
他に誰もいなくなった時、店長に訊かれた。
「就活はまだですけど、教育実習の申し込みはしました」
すると店長は目を見開いて、
「そうか、君のお父さんは先生だったんだよね」
そうかそうかと嬉しそうに頷く店長。そして、
「君のような人間が先生になるのはいい事だ。もっとそういう人物が教育者になって欲しいと思うよ、親として」
店長の娘さんは中学生だ。一番多感な時期を任せるのは、ある意味不安もあるのだろう。
「ありがとうございます。頑張ります」
教員になるには、まだまだたくさんのハードルが存在している。
これからなのだ。まだ僕はスタート地点に立つ事を許されたのに過ぎないのだ。
そして、いつも通り家に帰った。
はずだった。ところが、何故か玄関には姉の靴があった。どういう事?
「たっけくうん!」
上機嫌な姉。顔が赤い。酔っているようだ。
「お帰り、武彦」
少し呆れ気味に母がその背後から言った。あれ、ちょっと怒ってる?
「亜希ちゃんから聞いたぞ。お前、教員になるつもりなんだってな」
姉は上機嫌にゲラゲラ笑いながら言うが、母は半目で僕を見ている。
「武彦、母さんは反対したよね?」
やっぱりそれか。僕は溜息を吐き、事情を説明した。
「決して、高校の先生が楽だとは思わないけど、それでも、僕はやっぱり先生になりたいんだよ。父さんと同じ」
一生懸命、伝わるかどうかわからなかったけど、僕は母に説明した。
「母さん、武が決めたんだから、私達が口を挟むのはやめようよ」
姉は僕が父と同じ仕事に進むのを喜んでいるようだ。どこまでも父至上主義なのだと思った。
「それに、もし武彦が仕事で悩んでも、亜希ちゃんがいるし。母さんも早く武彦を解放してあげないとね」
あんたに言われたくない。母の顔にはそうはっきり書いてある気がした。
「わかったわよ。武彦、くれぐれも抱え込まないようにね」
母が僕を心配してくれているのはよくわかった。だから、
「ありがとう、母さん」
嬉しくて泣いてしまい、姉と母をドン引きさせてしまったのは恥ずかしかった。