その二百二十九(亜希)
私は都坂亜希。大学三年。
幼馴染みで彼氏でもある磐神武彦君とは順調。
彼は就職の事で悩んでいるようだ。
この前、久しぶりに二人きりでデートした時も、そんな雰囲気だった。
意気込んで胸の谷間を強調したビキニもちょっと不発。
でも、それより武君が考え込んでいる方が気になった。
優しい彼は、
「だって、亜希の水着が、この前より刺激的だからさ……」
そんな事を言ってくれたけど。
武君は教職を考えているらしいが、とにかくたくさんの壁が待ち受けている分野だ。
教育実習を受け入れてくれる学校がないかも知れない可能性がある。
そして、教員免許を取れたからといって、就職先が決まる訳ではない。
更に教員に採用されたら、その先には星の数程の生徒と保護者達が待ち受けているのだ。
武君のお母さんの珠世さんは、武君に教員にはならないで欲しいと言ったそうだ。
亡くなった武君のお父さんは小学校の教員だった。
その激務ぶりを目の当たりにしていたお母さんだからこそ、そんな思いがあるのかも知れない。
武君は教員に拘っている訳ではないと言っていたけど、心配。
お父さんが亡くなったのは、武君が三歳になる前。
武君は二月生まれだから、ほとんど記憶がない。
だから、お父さんが学校の先生だったと知った時、漠然と先生になりたいと小学生の頃言っていたのを私は覚えている。
何事にも一生懸命な武君だから、困難な道だと知れば、余計頑張ってしまう気がするのだ。
私も自分が不用意に武君に言ってしまった言葉に責任を感じている。
「無意識に選んでいたの? それって、運命を感じちゃうな」
私がそう言った事で、武君は自分が教員になりたいと思っていると考えてしまったのだ。
お互いの進路には干渉しない約束をしたのに、それが切っ掛けで武君が教員資格を意識したのなら、それは私にとっては本意ではない。
でも、教員資格のためにあれこれ調べ始めている武君に対して、
「教員にはならないで」
そんな事は言えないし、言ってはいけない。
今日は武君とは別行動の日。武君が隣にいないと、そんな事ばかり考えてしまう。
「あら、亜希ちゃん」
俯いてトボトボと歩いていたせいで、声をかけてくれた人が誰なのかすぐにわからなかった。
「あ、おばさん」
それは武君のお母さんだった。考えてみると、大学に通うようになってから、こんな風に外でお母さんに会う事はなかった気がする。
「そっか、今日は武彦と別行動の日なんだっけ?」
お母さんはニコッとした。私も微笑み返して、
「はい。おばさんはどちらへ?」
そう訊いてしまってから、余計な事を言ってしまったと思った。
一瞬お母さんの顔が引きつったのだ。
そう言えば、武君が以前、
「母さんが日高さんと頻繁に会っているんだ」
少しだけ悲しそうに言っていた事があったっけ。
「亜希ちゃんにならいいわね。これから、建君、あ、日高さんと食事をするの」
お母さんは照れ臭そうに答えてくれた。私は苦笑いして、
「そうなんですか」
そう言うしかない。
「まだ少し早いから、よかったら、そこでお茶しない?」
お母さんはそばにあったオープンカフェを指差した。私もどこに行く訳でもなく家を出て来たので、
「はい」
大きく頷いた。
椅子に腰掛け、店員に注文をすると、私はいい機会だと思って、お母さんに武君の事を相談してみた。
「そうなの。あの子、やっぱり学校の先生を考えているんだ……」
お母さんは複雑な表情だ。そうだろうなあ。
「でもね、亜希ちゃんが気に病む事はないわよ。武彦は父親をほとんど知らないから、父親が先生だった事が強く記憶に刻まれているの。だから、小さい頃から先生になりたいって言ってたの。亜希ちゃんが言ったからじゃないわよ」
お母さんも武君同様優しい人だから、そう言ってくれた。
「はい」
私はお母さんの言葉を素直に聞く事にした。考えてみれば、私の考え方は、武君をバカにしているものだったのだ。
武君ももう大人なのだ。私に言われたからその通りにしていると考えるのは武君に対する侮辱だ。
自分の浅はかさに呆れてしまいそうだ。
「あなた達はいつ結婚するのかしら? 卒業してすぐとかはないわよね?」
お母さんが急にとんでもない事を訊いて来た。顔が一気に熱くなるのがわかった。
「ごめんなさい、突然。でも、心の準備というものが必要だから……」
美鈴さんが結婚して、お母さんは寂しいのだろう。
そして、世間一般では、「息子は母親の恋人」と言われている。
男の子である武君の結婚は母親としては気になる事なのだろう。
「そんなに急がないと思います。でも、決まったら、すぐにお知らせしますね」
私に言えるのはそこまでだ。
「おお、母さんたら、また日高さんとデートなの?」
どこかで聞いた事がある声が聞こえ、お母さんの顔が蒼ざめた。
言うまでもなく、そこに現れたには、美鈴さん。その遥か後方で苦笑いしている憲太郎さんがいた。
「み、美鈴、今日は仕事じゃないの?」
お母さんはアタフタしている。美鈴さんはオホホと笑い、
「今日はね、憲太郎と久しぶりに休みが取れたので、平日デートなの」
してやったりの顔をしている美鈴さん。
武君にはこんなに頼もしいお姉さんがいるのだから、大丈夫? でも、ある意味心配。