その二百二十六
僕は磐神武彦。大学三年。
幼馴染みで彼女でもある都坂亜希ちゃんと話をしていて、自分が教員免許を意識した科目の選択をしているのに気づいた。
父は僕が三歳の時、交通事故で他界した。
その父は小学校の先生だった。
母は父の仕事を見ていて、僕には教員にならないで欲しいと言った事がある。
確かに小学校の先生は何でもこなさないといけないから、取り分け激務だ。
僕には無理そうな気がした。
そうは思ったけど、無意識のうちに教員免許に沿った科目を選んでいたのだとしたら、それは何かの暗示だとも思った。
僕は父と同じ仕事をしたいと思っていた時期がある。今思い返しても、それは漠然としたものだった。
でも、今は違う。はっきりとしている。父と同じ仕事がしたいと強く願っている自分がいた。
優しい亜希ちゃんは、
「私が言ったからって、決めたりしないでね。お互いの進路には干渉しない約束なんだから」
そう言って気遣ってくれたが、決してそういうつもりはない。
亜希ちゃんの言葉で、僕は自分の本当の希望に気づけたのだから。
進路が明確に見えたので、浮ついた気持ちが定まっていくのを感じた。
バイトに出かけるため、家を出て駅へと向かう。
亜希ちゃんの家の前まで行くと、彼女は庭の花に水をくれているところだった。
「おはよう」
「おはよう」
もうそれほど早くもない時間だが、構わないだろう。
「武彦、時間ある?」
亜希ちゃんは水を止めて門から出て来た。
「ちょっとなら大丈夫だよ」
僕は何だろうと思い、亜希ちゃんに近づいた。
「美鈴さんから、食事デートをしようってお誘いがあったの」
「え?」
ちょっと顔が引きつってしまった。この前のプールデートで解放してくれたんじゃないのか?
「そんな顔しないでよ、武彦。今度は、長須根さん達も一緒なんだから」
「え? 長須根さん達も?」
ますます意味がわからない僕は首を傾げてしまった。
「美鈴さん、間島君に会いたいみたいよ。間島君も美鈴さんと話がしたいみたいだし」
亜希ちゃんは微笑んでそう言うが、僕の顔は引きつったままだ。
間島誠君は、経済学部在籍の長須根美歌さんの恋人だ。
彼は、僕も驚くようなシスコン。何しろ、お姉さんの事を大好きと公言してしまうくらいなのだ。
僕もそれはさすがに他人には言えない。身内にはもっと言えないけど。
「そ、そうなんだ」
姉の恐ろしさを知らない間島君の引きつる顔が目に浮かんでしまう。
「食事デートは飲酒禁止にした方がいいと思うよ」
僕は幹事にされたらしい亜希ちゃんに提案した。
「そうね」
亜希ちゃんも僕が何を言いたいのか察したようで、苦笑いしている。
「詳しい事が決まったら、また教えるね」
亜希ちゃんと手を振って別れ、駅へと急ぐ。
それにしても、僕が言うのも何だけど、間島君て筋金入りのシスコンだな。
亜希ちゃんにも憧れの視線を向けていたし……。
まあ、姉に会って、怖い思いをすれば、少しはレベルが下がるかも知れないな。
あれ? 僕は姉に会いたがっている間島君にライバル意識を持っているのだろうか?
自分で自分の思考がわからなくなった。
「磐神君、僕の彼女、忙しくて無理らしいんだ。僕だけで参加はダメ?」
バイト先の一年先輩の神谷伊都男さんが言った。
まだプールデートをしたいらしい。どうしても姉と亜希ちゃんに会いたいようだ。
どうしようもない人だな。
「プールデートは姉の夫が禁止したので無理です」
僕は笑顔で宣告した。神谷さんの落胆ぶりは気の毒になりそうなくらいだったが、人妻とプールデートしようという貴方は間違っていますとしか言えない。
「磐神先輩のお姉さんにお会いするの、楽しみです」
長須根さんもウキウキしている。只、彼女は間島君が切望して食事デートが成立した事を知らない。
亜希ちゃんも長須根さんにそれを伝えられなかったらしい。
ちょっと可哀想な気もするけど、間島君は別に姉に恋愛感情がある訳ではないからね。
「先輩、間島君がお姉さんに失礼な事をしたら、遠慮なく叱ってくださいね」
長須根さんが真顔で言い添えた時、僕は心臓が止まるかと思った。
気づいていたんだ……。僕は苦笑いするしかなかった。
「昔からそうなんです。学校の先生でも、友達のお姉さんでも、とにかく年上の女性にはデレデレして……」
プウッとほっぺを膨らませて拗ねる長須根さんを可愛いと思ってしまった僕は、
(ごめん、亜希ちゃん!)
心の中で土下座した。
バイトを終え、裏口から出て、通りに抜けようとした時、
「だあれだ?」
わかり易い事をして来た人物がいた。こんな事をするのは一人しかいない。
「姉ちゃん、酒臭いよ」
そう言って手を払いのけて振り返ると、ニヤニヤしている姉が立っていた。
「仕方ないだろ、今日は接待だったんだから。気楽な大学生とは違うんだよ」
襟首をねじ上げて更に酒の臭いをプンプンさせて言う姉。
通りを歩いて行く事情を知らない人達は、怪訝そうな顔で僕ら姉弟の茶番劇を見ていた。
「成果はどうだったの?」
姉の顔を遠ざけて尋ねると、
「当然、ご成約いただいたよ! さっすが、姉ちゃんだろ?」
そう言ってポンポンと僕の頭を叩いた。
結局僕は姉をマンションまで送るハメになり、母より帰宅が遅くなってしまうので、メールをしておいた。
「ごめんね、武彦君。目を覚ましたら、きつく言っておくから」
眠りこけてしまった姉を引き渡すと、憲太郎さんがそう言ってくれた。
「はい、お願いします」
僕は苦笑いして応じた。
僕も仕事をするようになったら、酒を飲まずにはいられないような時が来るのだろうか?
今から不安になってしまい、家へと急いだ。