その二百二十四
僕は磐神武彦。大学三年。
そろそろ本格的に就職活動を開始しないといけないような雰囲気を周りの皆が醸し出している気がする。
とは言え、大学は前期が終了し、夏季休暇に入った。
僕はバイト三昧なので、あまり休みのイメージはないけど。
「今度の日曜日、休みなの、磐神君?」
バイト歴が一年先輩の神谷さんに捨て犬のような目で見られた。
だんだん、神谷さん、この仕草が似合い始めているのが怖い。
「はい。姉がどうしても休めと言いまして」
その原因は貴方のお喋りですと言いたいが、言えない。
先週の日曜日、彼女の都坂亜希ちゃんとプールデートに行った。
しかもダブルデート。経済学部の長須根美歌さんと彼氏の間島誠君が参加した。
亜希ちゃんはダブルデートに不服そうだったが、僕以上のシスコンの可能性が高い間島君に褒められて、途中から上機嫌だったのはちょっと心配になった。
間島君が亜希ちゃんを狙っているという事は絶対にないと思うが、間島君と楽しそうに話す亜希ちゃんを見ていると不安になってしまうのだ。
僕は心が狭いのだろうか?
「またプールに行くの? 僕も参加させてくれない?」
神谷さんがとんでもない事を言い出す。すかさず、
「いいですよ。でも、彼女同伴でないと参加資格ないですからね」
釘を刺した。グッと詰まる神谷さん。彼女とはうまくいっているはずなのに、何故そこで顔が引きつるのだろうか?
考えている事が理解できない。
そして、デート当日。
実の姉とダブルデートなんて、本当に気が重いのだが、逃げる事はできない。
「憲太郎さんが来るんでしょ? 恥ずかしいから、ビキニやめたの」
亜希ちゃんがそんな事を言い出して、更に僕を不安にさせる。
一人っ子の亜希ちゃんは、お兄さんか弟が欲しかったらしいので、姉の夫である力丸憲太郎さんに理想のお兄さん像を持っているようなのだ。
それにしても、僕はどうしてこんなに心が狭いのだろう。自分で嫌になる。
「勘違いしないでね、武彦。ビキニは武彦だけに見せたいの」
耳元でそう囁かれ、僕はもう少しで鼻血を垂らしそうになってしまった。
全力で男子だな、と反省した。
今回は、姉達の都合で、前回行った遊園地の隣のプールではなく、近くの公営プールになった。
それは別に構わないのだが、同級生とかに会う可能性が高まる分、ちょっと居心地が悪い。
現地集合という集まり方は、如何にも姉っぽいが、どこかで落ち合うとなると場所で揉めそうなので、その方がいいと思った。
「お待たせ」
プールのロビーで亜希ちゃんと待っていると、暗い声の姉が現れた。
白のTシャツにブルージーンズの短パンとビーチサンダルはいつも通りだが。
「あれ、姉ちゃん、憲太郎さんは?」
僕は一人で現れた姉に尋ねた。すると姉は大きく溜息を吐き、
「いきなり会社から電話でね。先方の都合が変わって、今日会う事になったんですって……」
憲太郎さんはお父さんが経営する会社に勤めているから、プライベートを優先する事が絶対にできないのだ。だから、姉の落胆は大きかった。
「そうなんだ」
僕はかける言葉も見つからず、亜希ちゃんと顔を見合わせた。
「ごめんなさい、私、遅れたかしら?」
するとそこへ何故か憲太郎さんのお姉さんの沙久弥さんが現れた。
何故沙久弥さんが? 謎だ?
「いえ、遅れていません。今日はありがとうございます、沙久弥さん」
姉は顔を引きつらせて頭を下げた。
「いた!」
僕は亜希ちゃんに二の腕を抓られて叫んでしまった。僕の顔がにやけていたのだろうか?
久しぶりに会った沙久弥さんは「ザ・美少女」全開の白のワンピース姿で縁の広い白の帽子を被っている。
「武彦君、亜希さん、お久しぶりね」
沙久弥さんの爽やか過ぎる笑顔に僕は亜希ちゃんの手前あまり笑顔になれず、
「お久しぶりです」
引きつった顔のままで応じた。
「お久しぶりです」
亜希ちゃんは笑顔全開で応じていたが。
「さあ、行きましょうか」
沙久弥さんは微笑んで更衣室へと歩き出した。
「どうして沙久弥さんが来たの?」
不思議に思ったので、姉に小声で尋ねた。
「後で話すよ」
姉は亜希ちゃんと誘うと、こちらを見ている沙久弥さんに愛想笑いをしながら駆け寄った。
僕は溜息を吐いて、男子の更衣室に歩を進めた。
更衣室を出て、驚いた。
プールサイドに人だかりができているので、何だろうと思って近づくと、注目の的になっていたのは姉と亜希ちゃんと沙久弥さんだった。
亜希ちゃんはターコイズブルーのワンピースの水着で、それほど派手ではないが、元エーススプリンターの太腿は惜しげもなく曝していた。僕もドキッとしたほどだ。
姉は相変わらずの際どい真っ赤なビキニ。胸の谷間はくっきりだし、下も最小限しか隠していない。
とても人妻とは思えない水着だ。
そして、その対極が沙久弥さん。何だか、小学生のスクール水着のような地味な濃紺の水着だ。
沙久弥さんは童顔で身長が低いけれど、決して一部マニアが喜ぶような体型ではない。
出るところは出ているし、ウエストもキュッとしまっている。
おっと、亜希ちゃんが僕の視線に気づいたみたいだから、これ以上沙久弥さんを見るのはやめよう。
改めて気づいたのだが、プールに来ているのは親子連れが多い。
亜希ちゃんや姉、そして沙久弥さんは相当若いのだ。
男性は嬉しそうに三人を見ているが、女性は嫉妬混じりに思えた。
「遅れました」
僕は囲みを破って三人に近づき、声をかけた。
途端に男達の羨望と嫉妬の視線を感じた。お前はその人達とどういう関係なのかという……。
怖いなあ。
「沙久弥さん、泳ぎは亜希ちゃんに教わった方がいいですよ。私、これじゃ、泳げないので」
姉はどうやら計画的に際どいビキニにしたようだ。
「そうね。美鈴さん、もう貴女も既婚者なのですから、もう少し露出の少ない水着にした方がいいわ」
沙久弥さんは姉を窘めると、亜希ちゃんを誘ってプールに入った。
「憲太郎君が行けないってなった時、偶然沙久弥さんが居合わせたらしくってさ」
姉は溜息混じりに理由を話し始めた。
「代わりに行くって言い出したらしいの。憲太郎君、あれで結構なシスコンだから、沙久弥さんに何も言えなかったの。で、現在に至るって訳」
「でも驚いたな。沙久弥さん、泳げないの?」
プールサイドに腰を下ろし、僕は亜希ちゃんに泳ぎを教わっている沙久弥さんを見ながら言った。
「それは姉ちゃんも意外だった。沙久弥さんて、何でもできそうなんだけどね」
隣に座った姉はクスッと笑った。何故かその笑顔が妙に可愛く見えてしまった。
「おお、誰かと思えば磐神じゃん。よくここに顔が出せたねえ」
そんな下品な言葉をかけてきたのは、中学時代に僕を虐めていたメンバーの一人だった。
久しぶりに会ったので、わからなかったくらいだが、奴は僕を覚えていた。
「都坂と付き合ってるって、ホントだったんだ? あいつも悪趣味だなあ、お前なんかと付き合うなんてさ」
そいつは僕の隣にいるのが姉だと気づいていないらしく、悪口が止まらない。
姉から凄い闘気を感じた僕は、そいつを哀れんだ。もう多分叩きのめされる。
ふと見ると、亜希ちゃんにもそいつの仲間達がにじり寄っていた。亜希ちゃんは必死に逃げようとしているが、相手は二人で囲まれてしまった。
悪い事に沙久弥さんは反対方向に泳いでおり、気がついていない。
「お前こそ、よく私の前でそんな偉そうな口が利けるな、小便たれが!」
姉がいきなり立ち上がり、そいつの顎を掴んだ。
「ぐう!」
隣にいたのが姉だとわかったそいつは、歯の根も合わない程震えていた。
「また漏らしたいんだったら、そうしてやろうか!?」
姉はドスの利いた声で言い、そいつを睨みつけた。
「ひいい!」
そいつは尻餅を突くと、這いずるようにして逃げ出した。
「姉ちゃん、亜希ちゃんが!」
僕が慌てて言った時、姉はニヤリとして、
「あっちの方がもっと気の毒みたいよ、武彦」
そう言って指差した。
「え?」
亜希ちゃんに視線を戻すと、いつの間にか戻った沙久弥さんが二人の男の腕をねじ上げていた。
自分達より二十センチは身長が低い沙久弥さんになす術がない事がわかったそいつらは、腕を放されると一目散にプールから上がり、その場から逃げ去った。
震えている亜希ちゃんのところに急いで近づくと、
「怖かったあ、武彦!」
思い切り抱きつかれ、柔らかいあれを直接感じ、いけない事を考えてしまいそうになった。
それにしても、「姉ーズ」恐るべしだと思った日だった。