その二百二十一
僕は磐神武彦。大学三年。
とうとう僕の大好きな姉が結婚してしまった。
こんな言い方をすると、おかしな関係かと思われてしまうが、それはない。
只、姉には計り知れない程の感謝をしているから、そんな思いが溢れて来るのだと思う。
「美鈴さん、本当に綺麗だったね」
彼女の都坂亜希ちゃんが耳元で囁いた。
亜希ちゃんは、何かにつけて、姉にライバル意識を持っていたようだが、今日はずっと感動していたみたいだった。
「私も美鈴さんみたいに綺麗になれるかな?」
式が終わって、力丸家と磐神家総出でお客様をお見送りする時、亜希ちゃんが言った。
「大丈夫。亜希は絶対に姉ちゃんより綺麗になるよ」
僕は全力で言った。
「ありがとう」
亜希ちゃんは嬉しそうだったが、ふと姉を見ると、浮かない顔をしているのに気づいた。
「結局、お祖父さんとお祖母さん、いらっしゃらなかったのね」
亜希ちゃんも悲しそうだ。
そう、父方の祖父母が何の連絡もなく式を欠席したのだ。
姉はそのせいで酷く落ち込んでいる。
「武彦、美鈴さんを元気づけてあげて。それができるの、貴方だけよ」
亜希ちゃんに言われるまでもなく、僕はそのつもりだった。亜希ちゃんの「お許し」をいただいたので、姉に近づいた。
「姉ちゃん、今までで一番綺麗だよ」
何だか見当外れの事を言ってしまったような気もするが、
「ありがとう、武君」
似ていない亜希ちゃんの物真似で応じたのだが、いつものキレがない。ちょっと心配だったけど、お客様が出て来ると、途端に笑顔全開になった。
瞬時に切り替えができるところは、素直に尊敬してしまう。
だが、お見送りがすみ、家族だけになると、押し黙ってしまった。
「美鈴」
夫になった憲太郎さんも心配そうに姉を気遣った。姉は白無垢で白い化粧をしているので、顔色はわからなかったが、落ち込んでいるのは間違いない。
祖父母はとうとう姿を見せず、母がもう一度家に連絡を取ったが、誰も出なかった。
「何かあったのかねえ」
母方の祖母が呟く。祖父は口を真一文字に結んで腕組みをしたまま何も言わない。
どうやら、腹を立てているようだ。
「土壇場になって来ないのが、一番身に堪えると思っているのだとしたら、許せん」
祖父は小声で独り言を言ったつもりのようだが、僕にははっきり聞こえた。
そんな風には思いたくはないけど、でも、嫌な事ばかり想像してしまうのも確かだった。
姉は、そんな状態にも関わらず、親しい友人がセッティングしてくれた二次会に出るため、急いで着替えをすませ、式場を出て行った。
「母さん、お願いね」
姉は立ち去り際に母に祖父母の事を託していた。どうしても来てもらいたかったのだ。
裏切られたとは思いたくないのだろう。僕も思いたくないけど。
お酒が飲めない僕と亜希ちゃんは二次会出席を見送り、母方の祖父母と一緒に家に帰った。
母は、それでも祖父母が来るかも知れないからとしばらく式場で待つ事にした。
そして僕は、家に連絡があるかも知れないからその時はしっかり対応してと言われた。
「明日にでも磐神さんのお宅に行ってみる」
道すがら、祖父が祖母に言っていた。祖母は祖父が怒っているのに気づいているようで、
「事を荒立てるような話はしないでくださいよ」
「わかってるよ。話をしに行くんじゃない。絶縁状を叩きつけに行くんだ」
祖父はムッとした顔で祖母に告げた。僕と亜希ちゃんはそれを聞いて顔を見合わせてしまった。
ああ、折角繋がり始めた絆が、こんな形で崩れてしまうなんて……。悲しくて涙が出そうになった。
僕達が家に着くと、祖母が、
「ここが、武彦の家なのね」
何故か涙ぐんで言った。そうか、祖父は以前来た事があるけど、祖母は初めてだったんんだ。
二人を居間のソファに座らせ、キッチンに行って、亜希ちゃんと二人でお茶の用意をする。
何だか、こうしていると、僕と亜希ちゃんの新居に祖父母を迎えたような気がしてしまう。
ああ、バカな妄想は追い出さないと。
「美鈴さんの式を見たばかりだからかな。こうして武彦と二人でいると、結婚したみたいな気がする」
亜希ちゃんが目を潤ませてそう言ったので、
「亜希」
思わず祖父母が隣にいるのにも関わらず、キスをしてしまった。
「武彦……」
亜希ちゃんは嬉しそうに僕を見た。僕は急に照れ臭くなって頭を掻いた。
二時間経っても、連絡はなく、母も諦めて式場から帰って来た。式場のスタッフの人には、万が一祖父母が来たら、連絡をくれるように頼んで来たそうだが、
「もう来るとは思えん」
その話を聞いた祖父が憤然として言った。母は何かを言いたそうな顔をしていたが、溜息を吐いて黙ったままだ。
祖父は明日にも母に磐神家に絶縁状を持って行く話をした。母は呆気に取られたが、
「それはもう少し待って、父さん。美鈴の気持ちを聞いてからにしてよ」
そう言って祖父を説得した。祖父も、
「一番悲しんでいるのは、間違いなく美鈴だから、あの子の考えに従うさ。私もそこまで意固地じゃない」
僕はホッとして、亜希ちゃんと微笑み合った。
夕ご飯は近所の店から出前を取ってすませた。
「私に奢らせてくれ」
祖父は会場では我慢していたビールを飲んだせいで意固地が始まってしまい、頑として譲らず、母は呆れながら応じていた。
「今日は泊まって行く?」
母が眠そうな顔をしている祖父に尋ねると、
「明日、磐神さんのお宅に行くから、帰る」
また話をぶり返してしまい、母と祖母を呆れさせてしまった。
しばらくして、僕は亜希ちゃんを送るために家を出た。
「何だか、いろいろあって大変だったね」
亜希ちゃんが腕を組んで来て言った。
「うん。姉ちゃん、ショックだったろうから、心配だよ」
「そうだね」
亜希ちゃんもしんみりしてしまったようだ。
「明日はゆっくり休んでね、武彦」
亜希ちゃんとお休みのキスをして、僕は家に帰った。
祖父は居間で寝てしまい、イビキを掻いていた。
「今、お祖母ちゃんがお風呂に入っているから、その後に入っちゃいなさい」
母に言われた、
「うん」
僕は着替えをすませるために二階に上がった。
祖父は母のパジャマを借りた祖母が何とか起こし、母の部屋に敷かれた布団に移動して寝た。
何十年ぶりかに親子三人で寝るらしい。
僕は風呂に入ると、三人にお休みを言って二階に上がった。
朝になったらしい。時計を見ると、まだ六時だ。
今日は母も休みだし、僕もバイトは午後からなので、まだ寝ていたかったのだが、祖父母が早起きしていた。
「珠世、武彦、大変よ!」
祖母が叫ぶ声が聞こえた。そのあまりに切羽詰まった感じに僕は嫌な予感がして、慌てて部屋を飛び出した。
階段を駆け下りて行くと、玄関に父方の祖父母が土下座をしていた。
ええ? どういう事?
「と、とにかく、そんなところでは何ですから、上がってください、お義父さん、お義母さん」
パジャマ姿なのを気にしながら、母が言った。
磐神の祖父母が居間に入る間中、母方の祖父は二人を睨んで一言も口を利かなかった。
お茶を入れている間、嫌な沈黙が部屋を支配し、息苦しくなってしまった。
「どうぞ」
母がお茶を出したのを切っ掛けに磐神の祖父が話し始めた。
その内容は衝撃的だった。
式の朝、余裕を持って式場に着きたいと思った祖父は、予め姉から聞いていた路線バスの時刻表をバス停まで行って書き写して、何時のバスに乗れば、何時に式場に着けるのか調べていたそうだ。
ところが、いよいよ出かけようと思った二人のところに、父のお兄さん、つまり僕の伯父さんの奥さんである依子さんが、
「私がお送りします」
そう言って来たのだそうだ。祖父は依子さんの申し出に眉をひそめたのだが、
「もう何十年も前の事にいつまでも腹を立てているのはやめる事にしたんですよ」
その言葉に祖父も祖母もホッとし、喜んだ。そして、依子さんの申し出を快く受け、車で送ってもらう事にした。
そして、式が始まる予定時刻より三十分程早く、二人は式場に到着した。
すぐに受付をすませようと中に入って式場の人に声をかけ、招待状を見せたら、
「これは場所が違います。ここからですと、車でも二時間はかかります」
二人は驚いた。依子さんが式場を間違えたと思った。携帯電話を持っていない二人は家に式場にあった公衆電話からかけたが、誰も出なかった。
仕方なく、式場の人に正しい会場への行き方を聞き、電車とバスを乗り継いで向かう事にしたのだが、途中で祖母が気分が悪くなり、動けなくなってしまった。
祖父はもう一度家に電話した。すると依子さんが出た。ところが、彼女は驚くべき事を言ったのだ。
「あの家族と関わりを持つつもりでしたら、もう二度と我が家の敷居は跨がないでください。尊さんのお宅に住ませてもらえばいいでしょう?」
祖父はそこでようやく、全ては依子さんの罠だったと気づいた。悔しくて涙が出そうだったが、今頼れるのは依子さんしかいないので、祖母が動けない事を話し、迎えに来てもらったそうだ。
開いた口が塞がらなかった。何て人なのだろう? 信じられない。
「違う場所に向かっているってわからなかったんですか?」
まだ全面的に磐神の祖父母を信用していない綿積(母の旧姓)の祖父が尋ねた。
「依子さんの車は、後ろの窓が全部外が見えないようになっていて、どこを走っているのかわからなかったんです。それに依子さんがずっと話しかけて来るので、外を見ている余裕もありませんでした」
磐神の祖母が涙を流して釈明した。用意周到という事か。ますます信じられない。
そして、家に帰った二人は、依子さんに、
「もう二度と尊の家族には関わりません」
そう誓わされ、誓約書まで書かされたのだそうだ。
「酷い……」
綿積の祖母と母が異口同音に呟いた。綿積の祖父もさすがに驚いたようだ。
「今日、ここに来た事を知られれば、私達はあの家を追い出される事になります。それでも、あなた方に詫びずにはいられなかったんです」
磐神の祖父母は泣きながら頭を下げた。僕は居たたまれなくなり、母を見た。母も祖母も泣いていた。
どうしてそこまで憎むのだろう? 僕には依子さんの思考が理解できなかった。




