その二百十八(姉)
私は磐神美鈴。もうすぐ大好きな力丸憲太郎君と結婚式を挙げる。
今はその最後の準備に追われる毎日。
憲太郎君はリオのオリンピックに向けて汗を流している。
時間が惜しい彼の事を思うと、式なんて挙げなくてもいいと思った事もあったが、
「そんな事、考えないでよ、美鈴。僕はそこまで追い込まれている訳じゃないよ。日常を充実させてこそ、試合にも心置きなく臨めるものだよ」
優しい憲太郎君はそう言ってくれて、式は最初の構想通り、憲太郎君のお姉さんの沙久弥さんと同じ式場で挙げる事になった。
先日、ようやく会えた父方の祖父母も出席の通知をよこしてくれた。それは何よりも嬉しい通知だった。
そして、招待状の返事もほとんどが出席で戻って来て一安心したのだが、
「竜神監督が出席できないって」
憲太郎君は肩を落として言った。
竜神監督とは、高校時代の柔道部の監督。
今の憲太郎君があるのは、その人のお陰と言っても過言ではないのだ。
「そうなんだ。残念だね」
私は欠席の通知を受け取って応じた。その通知には、
「一週間予定を間違えており、大変申し訳ない」
そう書き記されていた。監督が日程を勘違いして記憶し、どうやり繰りしても調整ができなくなってしまったらしい。
通知だけではなく、電話でも詫びて来たそうだ。
竜神監督は高校の時の体育の先生なので、私も知らない人ではない。柔道の監督としては極めて温厚な方で、それでいていざ稽古になるとまさしく鬼神の如き強さを発揮し、部員総勢三十余名が皆投げ飛ばされたという伝説の人なのだ。
「竜神監督に『集中力を磨け』と言われて、僕は大きく成長できたんだ」
いつもはどれほど穏やかで力を抜いていても、試合になった時に自分の力を最高まで瞬間的に高められるのが強くなれる秘訣だと教えられたそうだ。
憲太郎君は試合のとき以外は本当に穏やかだし、柔道の猛者には見えない。
ところが、試合会場に入った途端、別人になる。
竜神監督の教えも憲太郎君を強くしたと思うが、メンタル面で彼を強くしたのは、沙久弥さんの存在だろう。
沙久弥さんは合気道の師範で、気の巡らせ方の達人だ。
憲太郎君は集中力を高め、精神面を鍛えるために沙久弥さんと合気道で対戦した事がある。
それは私も知らなかった事で、まだ踏み込めない姉と弟の関係があるのだ、などと妙な嫉妬をしてしまった。
いけない、いけない。我が事として、反省しないと。こんな事だから、愚弟の武彦の彼女の都坂亜希ちゃんをヤキモキさせてしまうのだ。
それから数週間後、式まであと三日となった夜だった。私の携帯が鳴った。
親友の藤原美智子からだった。
「今晩は、美智子。どうしたの?」
私はいつも通りのトーンで呼びかけたのだが、
「ごめん、美鈴。結婚式、出席できなくなった」
美智子は涙声だった。何があったのだろう?
「旦那のお父さんが夕べ亡くなって……」
「ええ?」
驚いて憲太郎君と顔を見合わせた。美智子は高校の同級生だから、憲太郎君も顔見知りだ。
その美智子のご主人のお父さんが亡くなったなんて……。
美智子は今年の三月にスピード婚を挙げた。憲太郎君は出席できなかったけど、私は出席して感動し、美智子に引かれるくらい号泣してしまった。
あの時、お酒でほんのり顔を赤くし、にこやかにしていた方が、亡くなったの……。
「ごめんなさい。もう席とか決まってしまっているよね?」
美智子はそんな事を心配してくれた。
「気にしないで、美智子。それより、お葬式はいつなの?」
私は憲太郎君に目配せして、メモを持って来てもらった。
「親戚が多いので、三日後なの。だから……」
美智子は涙声を詰まらせた。私達の結婚式と同じ日なのか……。
「そうなんだ。じゃあ、お顔だけでも見に伺うわ」
もらい泣きしそうになりながら言うと、
「そんな、あなた達、結婚式を控えているんでしょ? いいよ、無理しなくても」
美智子は気を遣ってそう言ってくれたが、そんな事は関係ない。
「何言ってるの。私達、親友でしょ? そういう気遣いはいらないよ、美智子」
そう言って、泣いてしまった。
ひとしきり、泣いてしまったので、憲太郎君が美智子からご主人の実家の住所を訊いてくれた。
「そんなに遠くないから、十分行けるね」
憲太郎君は悲しそうだ。美智子は私達にとってキューピッドなのだ。だから、美智子は友人以上の存在なのだ。
「うん」
私はまた泣いてしまい、憲太郎君に慰められた。
その日はまだ大勢の方がいらしているらしいので、翌日の夜に伺う事にした。
美智子とは親友でも、ご主人とは式の時に初めて顔を合わせたのだから、お忙しい時に行くのも悪いと思ったのだ。
母に連絡すると、母の名前で香典を包んで欲しいと頼まれた。
そして翌日の夜、会社の帰りに憲太郎君と駅で待ち合わせて、ご実家に伺った。
美智子より二つ年下のはずのご主人は、一気に老いてしまったように見えた。
「お力落としのないように」
私と憲太郎君は香典をお渡しして、故人のお顔を拝ませてもらった。
穏やかな顔だ。心残りもおありだっただろうにと思うとまた涙が零れてしまった。
「明後日が結婚式だと美智子から訊いております。お忙しい中、本日は誠にありがとうございました」
美智子とご主人とそしてお母様が玄関まで来てくれた。恐縮してしまった。
私達はお辞儀をして、ご実家をあとにした。
「美っちゃん、いい人と結婚したね」
憲太郎君は泣きそうなのを誤摩化したいのか、顔を背けてそう言った。
「うん。家族って、いいよね」
私は憲太郎君とギュッと腕を組んだ。そう、家族とはいいものだ。
それを改めて思う事になるのは、式当日の事だった。




