その二百十五(姉)
私は磐神美鈴。社会人二年目。
今は亡き父の実家との絶縁状態を解消するために、私と婚約者の力丸憲太郎君は様々な人達に力を貸してもらい、何とか実家の住所を知る事ができた。
それを教えてくれたのは、母の親友だった旧姓が早乙女さんという方だ。
母も、その早乙女さんが一緒に行くと言ってくださったのを聞き、自分も行くと言った。
「不始末の当事者が知らん顔をできないから」
そう言われてしまうと、何も言えなかった。
そして、約束の日曜日。
母はシフトを調整して休暇を取った。父の実家には私の実家からの方が近いので、しばらくぶりに里帰りした。
「何だか緊張するな」
私と暮らすようになってから初めて実家に来た憲太郎君は、苦笑いしてそう言った。
「何度も来てるじゃない?」
不思議に思ってそう言うと、憲太郎君は、
「まだ籍は入れていないとは言っても、美鈴と暮らしているから、美鈴の実家の敷居が心なしか高くなった気がしてさ」
私は噴き出してしまった。憲太郎君て、案外気にしいなんだとわかって。
「お久しぶりです」
愚弟の武彦と彼女の都坂亜希ちゃんがいた。亜希ちゃんも心配で来たらしい。
だんだん、戦場に行く気分になって来た。
「紀美ちゃんとは、駅で落ち合う事になっているから」
母はソワソワしながら言った。紀美ちゃんというのが、早乙女さん。現在は塚沢紀美子さんだ。
「亜希ちゃん、ごめんね、いろいろ心配かけて」
私は心優しい未来の義理の妹に手を合わせて詫びた。亜希ちゃんは照れ臭そうにして、
「そんな、やめてください、美鈴さん。できれば一緒に行きたいくらいなんですけど、あまり大勢で行くのもどうかと思って」
そう言って武彦と顔を見合わせた。武彦が尻込みしたんだろう、多分。奴は私の視線を感じたのか、ビクッとした。
「な、何、姉ちゃん?」
顔を引きつらせて訊いて来た。それだとまるで私が脅かしているみたいだ。
「別に何も言ってないでしょ?」
ムッとしてみせると、またビクッとした。これがいけないのか。憲太郎君の冷たい視線を感じ、反省した。
しばらくして、塚沢さんが待つ駅へと出発した。
母はソワソワした状態が続いていたが、駅で塚沢さんと再会すると、憑き物が落ちたようににこやかになった。
「変わらないねえ、珠ちゃん。お嬢さん、貴女にそっくりで美人ね」
そんな事を言われ、母娘で照れてしまった。母に後で聞いたのだが、塚沢さんは当時の倍くらいの体格になっていたらしい。
お子さんが五人もいるそうだ。幸せなんだな、羨ましいと思った。
父の実家はそこから五駅先らしい。それほど遠くに引っ越した訳ではなかったのだ。
「伝え聞いた話だとね、尊君のご両親は今では尊君と絶縁してしまった事を後悔しているらしいんだけど、お兄さんの奥さんがね」
電車が動き出すと、塚沢さんはそう言って顔をしかめた。母もやっぱりと呟いて頷いた。
「私達がご両親と同居する約束だったのを反故にして逃げたのだから、仕方ないのよ」
母は悲しそうだ。私は憲太郎君と顔を見合わせ、塚沢さんを見た。
「でもさ、そもそもは、お兄さんが同居するはずだったのを奥さんが拒んで、それを聞きつけた尊君が自分達が同居するからと取りなしたのに酷いわよね。一体いつまで引き摺るつもりなんだろうね?」
塚沢さんは当時から母の味方だった人なので、当然の事ながら、父のお兄さんの奥さんには同情はしていない。
父のお兄さんの奥さんという言い回しも、何だか壁があるようで嫌だけど。
「期待させておいて、土壇場で裏切ったんだから、仕方ないのよ、紀美ちゃん」
母はあくまで低姿勢だ。いつもの強気な母とは別人のようである。
「裏切らなくてはならない状況を作り出したのも、あの人達でしょ? 珠ちゃんと尊君の結婚を猛反対して、ご両親を焚き付けて、挙げ句の果てには珠ちゃんのご両親まで巻き込んでさ」
塚沢さんはどんどんヒートアップしていく。大丈夫かな、と心配になってしまう。
「でも、結局は逃げ出した私達が悪いのだから、全面的に謝罪して、美鈴達の結婚式に招待したいの」
母がそう言うと、塚沢さんは急に涙ぐんで、
「そうだったわね。今日は喧嘩に行く訳じゃないんだよね。和解して、お嬢さんの結婚式に出席してもらうんだったよね」
その言葉に私はホッとして憲太郎君を見た。憲太郎君も同じだったみたいだ。
父の実家の最寄り駅に到着し、私達は電車を降りて駅前通りを左に折れ、住宅地へと歩いた。
立ち並ぶ家々を見ていると、そこが高級住宅街だとわかる。
母の実家と比べるのは失礼だけど、父のお兄さん、要するに私の伯父さんは結構な稼ぎがあるようだ。
「夫のお兄さんと研二さんが同級生で、よく話を聞くって言ってたけど、奥さん、自慢話ばかりしているようよ」
塚沢さんはウンザリ顔だ。うわあ、そういうのって、一番嫌な感じ。どんな人なんだろ、伯父さんの奥さんて。
「ああ、あれだわ。あの正面の二世帯住宅。あれが新居よ」
塚沢さんが指差したのは、まさにドラマに出て来るような豪邸、白亜の殿堂だった。
まさか、そこまでとは……。憲太郎君の実家や沙久弥さんのご主人の西郷さんのお邸より凄いじゃない。
近づいてみると、詳細がわかってきた。
玄関だけではなく、門扉まで二つあり、二世帯住宅というより、完全に独立した二つの住居が同じ敷地に建っていると言った方が正確だ。
門扉が別なので、インターフォンも二つある。一つは「磐神研二」と書かれた表札がその上にあり、もう一つには、「磐神幸彦」と書かれた表札がある。同じ名字なのに別の表札って、何だか嫁姑バトルを予感してしまう。
「新居は奥さんの希望だったみたいよ」
塚沢さんが肩を竦めて言った。
「じゃあ、幸彦さんの方でいいんですね」
私は塚沢さんに確認しながら、ボタンを押した。
「はい」
女性の声がした。
「お義母さんだわ」
母がピクンとして呟いた。
「先日お電話した磐神珠世と美鈴です。本日は無理をお聞き入れいただき、ありがとうございます」
私と憲太郎君は迷った挙げ句、事前に連絡をした。そして、父の両親、私にとっては祖父母と話をした。
父母が駆け落ち同然の結婚をした当初は、祖父は激怒し、絶対に許さないと言っていたそうだ。
でも、父が交通事故で亡くなり、すっかり意気消沈してしまったという。
祖父母は切っ掛けを待っていたのだ。だから、今日会う約束ができた。
「どうぞお入りになって。お待ちしてました」
祖母の声に応じ、私達は重々しい門扉を押し開け、庭に足を踏み入れた。
玄関で出迎えてくれた祖父母は、母方の祖父母と比較して、随分年老いて見えた。
気苦労が絶えないからだ、とは塚沢さんの言葉。
母と祖母は涙ながらに抱き合い、お互いに頭を下げ合った。
祖父は私を見て涙ぐみ、
「珠世さんによく似ている。尊もさぞ喜んでいるだろうね、君達の結婚を」
私は父の事を引き合いに出されたので、我慢できなくなって泣いてしまった。
予想以上の歓迎をされたので、私達はいい意味で拍子抜してしまった。
「紀美ちゃんが一緒にいるという事は、依子さんの事も聞いているのね」
居間で、祖母がお茶を淹れながら言う。私達は黙って頷いた。
今日は伯父夫婦はゴルフに出かけたそうだ。
子供は二人で、長男の須美雄さんは結婚して独立し、子供もいるらしい。
須美雄さんはどういうルートでか、父と母の事を聞き及んでいて、随分同情的らしい。
だが、その下の未実さんは、私と年が同じだが、就職もせずに家にいて、父と母の事には批判的だそうだ。
「未実はもう依子さんの分身みたいなのよ」
祖母は溜息混じりにそう言った。私達は苦笑いするしかない。絶対に会いたくないな、その人とは。
「これ、招待状です。六月十五日、私の誕生日に式を挙げます」
私は顔が熱くなるのを感じながら、祖父母に招待状を手渡した。
「ありがとう、美鈴さん、必ず出席するわ」
祖母が涙を流して言ったので、私ももらい泣きした。ジーンとしていたその時だった。
「誰、この人?」
いきなり若い女の子が居間に入って来て祖母に尋ねた。祖母はびっくりして言葉が出ないようだ。
多分、この人が未実さんだろう。
「お前のいとこの美鈴さんだよ」
代わりに祖父が答えた。すると未実さんはフンと鼻を鳴らして、
「よくもまあ、ウチに来られたものね。あれだけ迷惑をかけたくせに。どういう神経なのかしら?」
思わず反論しようとした私を母が手で制した。
「その節は本当にご迷惑をおかけしました。お母さんとお父さんは何時頃お帰りでしょうか? 直接お詫びしたいのですが?」
母は微笑んで未実さんに尋ねた。
「今日はお父さんもお母さんも帰って来ないわ。あなた達がいる限りね。さっさと帰りなよ!」
未実さんは険しい表情で怒鳴ると、居間のドアが壊れるくらいの勢いで閉め、出て行った。
何だろう、この悔しさは……。でも、堪えるしかないのか、私達は。
「ごめんなさいね。礼儀を知らない子で……。恥ずかしいわ」
祖母は涙を流している。あんな人のために謝る必要なんてないのに。
私達は、気を遣って何度も詫びてくれる祖父母に恐縮しながら、帰路に着いた。
「もうダメね。どこまで意固地なのかしら」
豪邸を仰ぎ見て、塚沢さんが憤然として言った。
「そんな簡単な事ではないと思っているわ、紀美ちゃん。今日はありがとう」
母は目を潤ませて礼を言った。
「完全解決の道のりは険しいけど、根気よく続けよう」
憲太郎君が微笑んだ。私はその笑顔に癒され、次回のチャレンジに懸ける事にした。
光明はまだ見えていないけど。