その二百十四(姉)
私は磐神美鈴。社会人生活がようやく慣れて来た。
そして、婚約者である力丸憲太郎君との同居も慣れて来た。
最初はちょっと照れがあったり、恥ずかしかったりしたけど、もう大丈夫。
「でもさ、風呂上がり、半裸で歩き回るのはやめてよ」
真顔で言われた時は、さすがに落ち込んだ。
実家にいた時は、愚弟の武彦がいても、全然気にしないで上半身はタオルだけで歩き回っていた。
時々、母に叱られたけど、それも終盤に入ると何も言われなくなった。
諦められたのかも知れない。
だが、武彦はいつまで経っても、私が首からタオル状態でウロウロすると、下を向いたままだった。
「当たり前だよ。武彦君にとって、美鈴は憧れのお姉さんなんだから、そんな格好で歩く美鈴を見たくなかったんだと思うよ」
憲太郎君に言われた。憧れのお姉さん? そんなはずはないと思うのだが。
「憧れじゃなくて、恐怖のお姉さんでしょ?」
私は苦笑いして応じた。
「いや、そんな事ないよ。武彦君は美鈴を尊敬しているから、美鈴がオジサン化するのを見たくなかったんだと思うよ」
「お、オジサン化?」
憲太郎君にそう言われてドキッとした。そうか、そんな事をするのはオジサンなのか。
そう言えば、時々ドラマや漫画で、父親がパン一でお風呂から出て来て、娘が、
「もう、お父さん、裸で歩かないでよお」
そんな事を言っているシーンがあったような気がする。
でも、昔の記憶を辿ってみるに、亡き父はそんな事を一度もした事がなかったと思う。
真面目でキチンとしていた父はだらしない格好をしている事はなかった。
お酒は多少飲んだけど、酔っ払って乱れた事はなかったし、潰れて眠ってしまった事もなかった。
という事は、風呂上がりの私は一体誰に似てしまったのだろうか?
そんなどうでもいい事を考えていた時、携帯が鳴った。
それは母の弟の豊叔父さんからだった。
武彦が母の同級生の日高建史さんの次女の実羽さんを通じて父の実家の住所を調べようとしたのだが、父の実家は日高さんにすら転居先を教えていなかった。
どこまで怨まれているのだろうか、と怖くなったが、叔父さんが父の同級生を当たってくれる事になった。
但し、その多くは、実家の味方の可能性があるので、あまり期待はできなかった。
父と母は双方の実家の反対を押し切って駆け落ち同然の結婚をし、たくさんの人達に迷惑をかけたからだ。
だからといって、それを放置する事はできない、というのが、憲太郎君の考え。
よくよく確かめてみると、その大本はお姉さんの沙久弥さんらしい。
「貴方は美鈴さんと結婚するのだから、それくらいの責任は負いなさい。そうしない限り、貴方は美鈴さんの本当の夫にはなれないわ」
沙久弥さんらしい厳しい言葉だ。私は感動して泣いてしまったけど、憲太郎君は大好きなお姉さんである沙久弥さんの言う事を聞いただけなのかな、などと邪推してしまった。
「今、大丈夫か、美鈴?」
叔父さんの声はテンションが高そうだ。いつもより高くなっている。
「ええ、大丈夫。朝食をすませて、寛いでいたところだから」
私は憲太郎君に目配せして答えた。
「そうか。やっと、義兄さん、いや、お父さんの実家の住所がわかったんだ」
叔父さんはあれから毎日、丹念に父の同級生の家を調べて、一軒ずつ電話をかけて確かめていたのだ。
予想通り、その多くは実家派で、
「教えないで欲しいと言われている」
そういう反応だったそうだ。何だか、切なくなって来てしまう。
叔父さんも半ば諦めかけていた時、二十五軒目でようやく教えてもらえたという。
それは、母の親友だった人のご主人で、父の兄とその人のお兄さんも同級生だったので、そのつながりで知っていたらしい。
しかも、母の親友だった人は、当時から母の味方で、ずっと応援してくれていたという。
だが、結婚して、ご主人の転勤で広島に行ってしまった直後に母と父が音信不通になってしまったため、母とも連絡が取れなかったのだという。
「旧姓は早乙女さんていう人だよ。姉さん、いや、お母さんも覚えていると思うけど」
早乙女さんも、母と連絡を取りたがっていたという。もう、本当に色々な人に迷惑かけてるのね、我が両親は。
「ありがとう、叔父さん。母さんに伝えるわ。それとも、叔父さんが直に伝える?」
私はほんの冗談のつもりで言ったのだが、
「いや、まだちょっと美鈴のお母さんは怖いんだよ。だから、美鈴から伝えてくれ」
怖いお姉さんの流れは、間違いなく母の家系だと思った。ああ……。
叔父さんから父の実家の住所と電話番号を聞いた私は、憲太郎君とどうやってコンタクトを取るか話し合った。
電話をしても、私が誰なのか名乗った時点で、切られてしまう可能性がある。
アポなしで言ったら、確かに不意を突けるかも知れないけど、それを理由に家に入らせてもらえないかも知れない。
何を思いついても、ネガティブな事しか思い浮かんで来ない。
どうしたものかと悩んでいると、もう一度叔父さんから電話がかかって来た。
「早乙女さんが一緒に行きたいって言ってるんだけど、どうする?」
叔父さんの話はまさに渡りに船だった。
「是非、お願いします」
私は即答した。早乙女さんも私達の立場を考えてくれて、一緒に行った方がいいと判断してくれたそうだ。
「来週の日曜日に行くのでいいな? 早乙女さんにはそう伝えるからな」
叔父さんから早乙女さんの連絡先を聞き、通話を終えた。
そしてすぐに母に連絡。早乙女さんの事を告げると、母は絶句してしまった。嗚咽が聞こえたので、泣いていたのだと思う。
「母さんも行くわ、美鈴」
母がしばらくしてそう言ってくれた。
「不始末の当事者が知らん顔をできないから」
「わかった」
母の答えを聞き、私も泣いてしまい、憲太郎君に抱きしめられた。
さあ、結婚へ向けての最難関に遂に立ち向かう時が来た。
頑張るぞ!