その二百十二(姉)
私は磐神美鈴。もうすぐ結婚する幸せ絶頂期の女子である。
いや、それは語弊があるかな? 結婚するまでが絶頂期では、結婚した後は堕ちるだけという事になってしまう。
そんな事は断じてない。
高校の時からずっと目をつけていて(コホン)付き合うようになった力丸憲太郎君と遂に念願の夫婦となるのだから、まだまだ山頂は先にあるはず。
子供が生まれた時? それとも、もっと先? いやいや、今からそんな事を心配しても仕方がないだろう。やめておこう。
その前にクリアしておかなければならない事がある。
まずは、母の実家への訪問。ここは、以前母と祖父を仲直りさせるために何度か行った事があるから、憲太郎君の紹介という程度のものだ。
それ程問題ではないし、むしろ楽しみなくらいだ。
本当の難関はその先にある。
憲太郎君の発案で、亡き父の実家にも行こうという事になった。
最初は不安だったが、
「美鈴のお父さんのご実家と絶縁状態なのは良くないよ」
憲太郎君に何度も説得されて、決意した。それを先週、愚弟の武彦とその過ぎた彼女である都坂亜希ちゃんに話した。
武彦も心配そうな顔をしていたが、別に決闘に行く訳ではないのだから、そんなに深刻に考える必要はない。
とは言え、最悪の場合、門前払いの可能性すらある。
「その時は出直せばいい。一度に全部すませなくてもいいと思うよ」
憲太郎君は爽やかな笑顔で言ってくれた。確かにその通りだ。
母が反対するかも知れないので、母の実家に行ってから、母に話す事にした。
祖父母も味方に付けて、母を説得するつもりだ。ここにも難関があったのかと改めて思ってしまった。
「何だか、ドキドキして来たなあ」
祖父母の家に行く道すがら、私は母と武彦と三人で来た日を懐かしんでいたが、憲太郎君は顔を強張らせていた。
「お祖父ちゃんちゃんもお祖母ちゃんも怖い人じゃないから、大丈夫だよ、憲太郎」
私は憲太郎君をリラックスさせようと思って言った。
「美鈴のお父さんに挨拶に行く心境なんだよ」
憲太郎君は苦笑いして言った。ああ、そうか。父がいない私は、よくテレビドラマである光景を体験できなかったのだ。
「美鈴は嫁にはやらん!」
父がそんな事を行って、憲太郎君に掴みかかるシーンを想像してしまい、ちょっとウルッと来てしまった。
いや、あの優しい父なら、そんな事にはならなかっただろうけど。
「ごめん、美鈴、まずい事言ったかな?」
憲太郎君は私が涙ぐんだのに気づき、詫びて来た。私は慌てて涙を拭い、
「違う、違う。憲太郎とお父さんが談笑している光景を想像して、ちょっとね……」
憲太郎君は私を悲しませてしまったと思ったのだ。優しいなあ。そういうとこ、大好きよ。
「そ、そうなんだ」
憲太郎君はホッとしたようだ。良かった、緊張も解けたみたいだし。
母の実家に着くと、祖父母が道路にまで出て来て迎えてくれた。
「いやあ、男前ねえ。テレビでも何度か見た事あるけど、実物の方がずっとイケメンよ」
祖母が嬉しそうな顔で言ったので、祖父が少し機嫌が悪くなったのはご愛嬌かな?
「ありがとうございます」
憲太郎君は照れていた。
私達は以前と同じようにお寿司をご馳走になった。
「這ってでも、結婚式には出席するからね」
祖母が涙を流して言ったので、祖父が、
「泣く奴があるか」
そう言いながら、自分でも泣いているのを見て、私ももらい泣きしてしまった。
しばらく歓談した後、私は母に電話をし、父の実家に行く事を伝えた。
最初は驚いて反対した母も、祖父、祖母、そして止めは憲太郎君の説得で、ようやく認めてくれた。
「揉めないでね、美鈴」
母は涙声でそう冗談とも本気ともつかない事を言った。
「揉める訳ないでしょ。和解をするために行くんだから」
私もつい目を潤ませて言った。
母の許可を得て、さて、いよいよと思った時だ。祖母があっと大声を上げた。
「どうしたんだ、急に? 憲太郎君が驚いてるじゃないか」
祖父が祖母を窘めた。すると祖母は苦笑いして、
「ごめんなさいね、憲太郎さん。実はね、磐神さんのお宅、引っ越したらしいのよ」
「え?」
私は思わず憲太郎君と顔を見合わせてしまった。
「毎年、返事はもらえないながらも、年賀状とか、暑中見舞いとかの葉書を出していたんだけど、今年の年賀状が宛先不明で戻って来てしまったのよ」
祖母の話を聞いて、祖父がポンと手を叩いた。
「そうだったな。いやあ、すまなかった。もっと早く気づいていれば良かった。申し訳ない」
頭を下げて謝ってくれたので、憲太郎君も私も恐縮してしまった。
「じゃあ、引越先もわからないの?」
私はがっかりして溜息を吐いた。祖父と祖母はシュンとしてしまったようだ。
「そうね。豊も、さすがにそこまでは知らないだろうし……」
豊というのは、母の弟。要するに私の叔父さんだ。
「あ、そうだ、日高さんは知らないかな?」
憲太郎君が不意に言った。私はハッとして祖父母を見た。憲太郎君もしまったという顔をした。
「日高さんて、建史君の事?」
祖母はニッコリしたが、祖父はムスッとした。母を好きだった男の人だからだろうか?
そう言えば、母と日高さんが頻繁に会っているって、二人は知らないんだよね。
「どうして、日高君の事を知っているの?」
祖母に訊かれて、私は困ってしまった。すると憲太郎君が、
「豊叔父さんが、取引先で偶然会ったって言ってたよね、美鈴」
うまく誤摩化してくれた。危ない、危ない。
本当なら、祖父母の家からそのまま父の実家に行こうと思ったのだが、どこなのかわからないのではどうしようもないので、一旦帰る事にした。
祖父母に見送られ、駅に向かった。私は二人の姿が見えなくなったので、携帯を取り出して母に連絡した。
「どうしたの?」
電話がかかって来るのが予想より早かったので、母が心配そうな声で出た。
私は事情を説明した。
「日高さんは知らないかな、お父さんの実家の場所を」
すると母は、
「それはどうかわからないけど……。ケチがついたんだから、やめておいた方がいいんじゃないの?」
そんな事を言い出した。
「何言ってるの、母さん! 母さんと父さんの不始末のけりを娘の私がつけに行くのよ、そんな事言わないでよ」
ムッとしたので、つい言ってしまった。
「すみません」
母の声は本当に申し訳なさそうだった。
でも、本当に母の言う通り、やめておけば良かったと思うような事が待ち受けているとは、その時は思いもしなかった。