その二百九
僕は磐神武彦。とうとう大学三年になった。
いよいよ就職とかも具体的に考えなければならない段階に足を踏み入れた気がする。
「おはよう、武彦」
彼女の都坂亜希ちゃんが眩しい笑顔で待っていてくれる。
「おはよう、亜希」
亜希ちゃんはここ一週間ほど、僕の顔を見るだけで顔を赤くする。
先月あった亜希ちゃんの従兄の都坂忍さんと義理の妹さんの真弥さんの結婚披露宴の二次会での事が原因だ。
二月が誕生日の僕はまだお酒を本格的に飲んだ事がない。母に勧められてビールを口にしてみたが、全然美味しくなかった。
それに酒乱系の姉を見ているうちに飲酒が怖くなっていた。
本当は二十歳になっているのに、亜希ちゃんが、
「武彦はまだ十九歳なので飲酒はできません」
そう言ってくれて、全部彼女がご返杯とかを引き受けてくれたのだ。
もしかすると、亜希ちゃん自身、混乱していたので、僕の年齢を間違えていたのかも知れない。
いや、むしろ、僕を助けようとしてそんな嘘を吐いてくれたのだろうか?
「亜希、無理しないで」
僕は亜希ちゃんに小声で言ったが、
「平気よ」
そう応じた亜希ちゃんの目は、心なしか座っているような気がした。
姉に似て来たの? そう思ってしまった。
二次会もそろそろお開きになる頃には、いつもの亜希ちゃんではなくなっていた。
「武君、チュウしよ」
僕に抱きついて来て、そんな事を言い出していた。
「亜希、皆さんが見ているから……」
僕は顔を引きつらせながらも、何とか彼女の行動を押し留めた。
周りの人達に冷やかされたが、それは決して嫌な感じではなく、僕と亜希ちゃんを祝福してくれているものだった。
そして、会が終了して、忍さんと真弥さんに挨拶して、お店を出てすっかり夜も更けた街を歩き出した時だった。
「武君、チュウしよ」
またいきなり亜希ちゃんが抱きついて来て、不意を突かれた僕は、舗道で、衆人環視の中、キスをしてしまった。
それも口をつけるだけのものではなく、舌を入れてくるディープキスだった。
口笛やかけ声が聞こえたが、僕は亜希ちゃんのあまりに情熱的なキスに恍惚としてしまい、身を任せてしまった。
何とかキスを終わらせ、タクシーを拾うと、駅へと向かった。
亜希ちゃんは満足そうな顔で寝入ってしまい、僕はホッとした。
駅に着き、改札を抜けてホームの階段を上がり始めた頃、背負っていた亜希ちゃんが目を覚ました。
「あ、武君」
まだ少し酔っているのか、僕の事を呼び捨てにするのを忘れていた。
「やだ、私、どうしてたの?」
自分が背負われているのに気づき、亜希ちゃんは慌てて身体を動かし、飛び降りてしまった。
「大丈夫、亜希?」
僕はよろけた亜希ちゃんを支えながら尋ねた。亜希ちゃんはトロンとした目で、
「私、何しちゃったの?」
可愛過ぎる! そんな感情が湧き上がってしまうほど、ウルウルしている瞳をした亜希ちゃんは奇麗だった。
「飲み過ぎて寝ちゃっただけだよ」
僕は真相を話さずに誤魔化した。亜希ちゃんもまだ酔っているせいか、
「そう」
過度な追及はなく、その場は収まった。
ところが、親戚の結婚式の二次会だから、情報が伝わるのは予想以上に早かったらしい。
「武彦、私、二次会でキスを迫ったんですって?」
二日後に会った時、そう言われてしまった。
「あ、うん」
僕は泣き出しそうな顔で尋ねる亜希ちゃんに後ろめたさいっぱいで応じた。
「どうして教えてくれなかったのよ? 知らなかったから、謝れなかったじゃない?」
亜希ちゃんはもう本当に泣きそうだ。僕ももらい泣きしそうなのを堪えて、
「だって、嬉しかったから。だから言わなかったんだよ」
「武彦……」
とうとう泣き出してしまった亜希ちゃん。そしてまた、木陰でキスをした。軽めのだけどね。
ところが更にその次の日、今度は路上でのキスも目撃されていたらしく、その情報が入ってしまった。
「もう、それも何で黙っていたのよ、武彦?」
今度は亜希ちゃんはちょっとムッとしていた。さすがに「路チュウ」は恥ずかしかったらしい。
「だって、嬉しかったから」
僕はそう答えるしかなかった。嘘じゃないし、そういう返事が一番彼女を傷つけないから。
「ありがとう、武彦」
そしてまた建物の陰でキスした。もうこれでおしまい。二人でそう思った。
「おはよう、久しぶりね」
大学に着くなり、同級生の長石姫子さんとその彼の若井建君が声をかけて来た。
「おはよう」
僕と亜希ちゃんは揃って挨拶を返した。
「先月さ、偶然通りかかっちゃってさ、見ちゃったわよお、亜希ちゃんと磐神君の情熱的なキス。こっちが恥ずかしくなるくらいだったわ」
長石さんのその言葉に僕と亜希ちゃんは顔から火が出るほど赤くなったのはいうまでもない。
それはともかく、就活も視野に入れないとね。