その二百七
僕は磐神武彦。本当にあと少しで大学三年。
幼馴染みの都坂亜希ちゃんとは順調。
怖い姉ともうまくいっている。
只、母の行動がちょっと姉を苛つかせた時は、恐ろしくなった。
実はかなり気が強い事が発覚してきた母が、高校時代に今は亡き父と母を争ったと言われている日高建史さんと頻繁に会っていると聞いた。
その母を姉が、自分と婚約者の力丸憲太郎さんの新居となるマンションに呼んだのだ。
状況次第では、血を見るのではないかと思われた。
何しろ、姉は筋金入りのファザコンだからだ。そんな事を僕が思っているのを知ったら、命が危ないけど。
父を悲しませる行動をしている母を姉は許せないと言っていた。
母は母で、姉の計略を感じ取り、僕を問い詰めて来た。
姉も怖いけど、今は立場的に母の方が怖いし、怒らせるのは得策ではないと判断した僕はすぐに母の軍門に降り、姉の考えている事を話した。
このままだと、どう決着がつこうとも、僕の身に何かが起こるのは避けられない様相を呈していた。
「心配要らないわ、武彦。美鈴には、母さんがきっちり言っておくから。貴方を恨むのは筋違いだってね」
出かける時、不安そうな顔をしている僕に母は微笑んでそう言った。
「う、うん」
僕はそれでも動揺を隠し切れずにいた。最悪の場合、亜希ちゃんに匿ってもらおうかとも思ったが、それではあまりにも惨めなので、憲太郎さんに泣きつこうと思っていた。
「只今」
出かけてから、十五時間後。僕がコンビニのバイトから帰ってもまだ帰宅していなかった母が玄関のドアを開けたのは、深夜の十二時を回っていた。
「お帰り」
僕は母がかすり傷一つ負わずに帰還したのでひとまずホッとした。
どうやら、最悪の事態は免れたらしい。
「どうしたの、武彦?」
母は僕が涙ぐんでいるのを見て首を傾げている。
「姉ちゃんと喧嘩にならなかったの?」
恐る恐る真相を訊いてみた。すると母は大笑いして、
「喧嘩になんてならないわよ。大丈夫。貴方の事も恨んではいないわよ、美鈴は」
そう言われて心の底から安心した。
日高さんが母に会おうとしたのは、夢に父が出て来たからだと言う。
そして、母がその申し出に応じたのは、母の夢にも父が出て来たからだという。
父が二人を会わせたがっていると知った姉は、
「反対する理由はない」
そう言って、母と抱き合って泣いたそうだ。
しかも、あまりにも入り込んで泣いていたので、憲太郎さんが帰って来たのも気づかず、声をかけられてびっくりしたらしい。
「あんなに恥ずかしい思いをした事なかったわ。穴があったら入りたいって、ああいう時の事を言うのね」
母はその時の事を思い出したのか、涙ぐみながら言った。僕も泣きそうだ。
「美鈴は勝手に武彦には反対する権限はないって言ってたけど、一応訊くね」
母は零れそうになった涙を拭って僕を見た。
「あ、うん」
僕も目を擦って居住まいを正して母を見た。母は微笑んで、
「母さんが日高さんと会うの、反対する?」
僕は微笑み返して、
「反対する訳ないじゃないか。父さんが引き合わせたんだから、姉ちゃんや僕に反対する権利なんてないよ」
「ありがとう、武彦」
母に抱きしめられた。何だか、照れ臭かった。
そして、翌日。母を送り出してから、僕もバイトに出かけた。
「おはよう、武彦」
亜希ちゃんが庭の花の手入れをしていた。デニムのオーバーオールを履いた亜希ちゃんなんて滅多に見られない。携帯のカメラで撮りたいくらいだが、実際にやったら軽蔑されるからできない。
「おはよう、亜希」
僕は清々しい気持ちで応じた。
「おばさん、いつになく嬉しそうだったけど、何があったの?」
亜希ちゃんが興味津々の顔で尋ねて来た。僕は、亜希ちゃんにならいいかと思い、事情を説明した。
「そんな事ってあるんだね。素敵」
優しい亜希ちゃんは涙ぐんで言った。ああ、可愛過ぎる!
「そうそう、それで思い出したんだけど、忍さんと真弥さんの結婚式、二人で祝辞を述べる事になったから、一緒に考えようね」
亜希ちゃんが実にサラッととんでもない事を告げた。
「ええ!?」
忍さんは「お漏らし君」と姉に呼ばれている亜希ちゃんの従兄だ。
そして、真弥さんは、忍さんのお父さんが転勤先で出会った女性の連れ子で、その二人が結婚するのだ。
「確か、来週の日曜日だよね?」
僕は血の気が引くのを感じながら、亜希ちゃんに確認した。
「そうよ。三月二十四日。沙久弥さんと同じ日に式を挙げるんなんて、妙な因縁よね」
亜希ちゃんはクスッと笑いながら言った。沙久弥さんは憲太郎さんのお姉さん。
以前、亜希ちゃんを僕から奪おうとしていた忍さんが僕に絡んだ時、偶然居合わせた沙久弥さんに投げ飛ばされた事があるのだ。
確かに妙な因縁を感じた。
「人のつながりなんて、本当にわからないよね」
亜希ちゃんはいろいろあった忍さんとの事を回想しているのか、遠い目をしている。
確かにね。忍さんには恨まれ、真弥さんにはキスをされ……。僕もいろいろあったな。
「あ、武彦、今、真弥ちゃんにキスされた事を思い出しているでしょ?」
亜希ちゃんの勘の鋭さには震えが来るほどだ。何でそう思ったのだろうか?
「お、思い出してないよ!」
白々しいとは思ったが、ここは全力で否定しないといけないと感じ、身振り手振りを交えて言った。
「どうだか」
そう言いつつも、ニコニコしている亜希ちゃん。やっぱり可愛い。こんな可愛い子を裏切るなんて絶対にあり得ないよな。
そして、亜希ちゃんと別れ、駅へと向かう間、僕はずっと祝辞の事を考え続けた。
どうしよう?




