その二百六(姉)
私は磐神美鈴。もうすぐ社会人二年目。
仕事も順調だし、婚約者の力丸憲太郎君との仲もバッチリ。
ところがここに来て、新たな問題が持ち上がった。
愚弟の武彦の件ではない。あいつの起こす問題で頭を悩ますほど私は暇ではないのだ。
コホン。そうでもないでしょ、とかあらゆる方面から突っ込みが入りそうだな。
ええ、そうですとも。私は自他共に認める「弟大好きお姉さん」ですよ!
でも、武彦には断じて内緒。恥ずかしいから。
今回の問題は、思わぬ方面で発生した。
火元は我が母の珠世。
管理職まで上りつめた優秀なパート社員であり、良き母親でもあるのだが、今回はその母親が後ろに引っ込んでしまった。
いや、予断はいけない。まだ母に確認を取っていないのに決めつけるのは間違っているだろう。
母は、高校時代に今は亡き父と恋のライバルであった日高建史さんと再婚を考えているらしいという情報を武彦が日高さんの次女である実羽さんから入手したのだ。
武彦の聞き間違いかも知れないし、実羽さんの話自体が嘘かも知れない可能性もある。
しかし、母にも状況証拠が存在していた。
早番の日にも遅く帰ったり、時々夕食をすませて帰ったりした事があると武彦が証言している。
私は疑惑が確信に変わらない事を祈りつつ、母をマンションに呼んだ。
一度新居を見に来て欲しいと本当の理由を言わずに。
それ自体、母を疑っている事になるのだが、本当の理由を言ったら、母は来ない気がしたのだ。
「いらっしゃい。わかり易いところにあるでしょ?」
私は作り笑顔で出迎え、母をリビングダイニングに通した。
「広いわね。これならこのまま新居にしてもいいわね、若奥様」
母は私の気持ちを知らないので、そんな冗談を言って来た。
話を切り出しにくくなりそうだ。
でも、こればかりは私が役割を果たすしかない。
武彦には荷が重過ぎる。そして何より、父の事を思うと、どうしても訊かない訳にはいかなかった。
「さてと」
母はテーブルに着くなりそう言い、お茶の用意をしている私を見た。え?
「どういうつもりで私を呼び出したのかは、武彦から聞いているわ」
母は真顔でそう言った。何ですって!? あのバカ、喋っちゃったの? もう、どこまでダメな男なのよ……。
「でも、武彦に当たるのは筋違いよ、美鈴。母さんが強く命令したんだから、あの子を怒ったりしたらいけないわ」
母はジッと私を見つめたままで言う。何故か立場が逆転し、私が尋問されるような気がして来た。
でも、押されたままでは終われない。私は無理に余裕の笑みを浮かべた。
「そういう事なら、話が早くて好都合よ、母さん。単刀直入に言うわね」
「どうぞ」
母も負けずに余裕の笑み。確かに私はこの人の娘だとしみじみ思った。
「日高さんとの再婚を考えているって、本当?」
私は口の中が渇き切ってしまうのを感じながらも何とか言い切った。そして、我慢し切れずにお茶をゴクッと一口飲んだ。
喉から胃袋へと熱いものが降りていくのが鮮明に感じられる。舌も少々火傷気味かも知れない。
「そこまでは考えてはいないわ」
母は冷静な声で言った。少なくとも私にはそう聞こえた。
その言葉を聞いて、ホッとした。再婚は考えていないのか。ならばこれ以上尋ねる事はない。
「それなら……」
笑顔になって言いかけた時、母がそれを遮った。
「再婚までは考えていないけど、彼とはこれからも会うと思う」
母は視線を逸らさずにまっすぐに私を見ていた。何も恥じる事はないという事なのだろう。
「それ、どういう事?」
私の口から出たのは、それだけだった。それ以上何か言いたかったはずなのに、言葉を忘れてしまったかのように口が動かない。
怖いのだ。母の反応を見るのが恐ろしいのだ。身体が震えているのがわかった。
すると、真剣な表情だった母の顔が綻んだ。
「建君、ううん、日高さんが教えてくれたの。どうして今になって私に会おうと思ったのか」
母はまた久しぶりに会ったあの食事会の時の顔をしていた。高校時代のような含羞んだ顔。
またドキドキして来た。もう一度お茶で口の中を潤す。今度は心地いい温かさだった。
「日高さんの夢枕に父さんが立ったんですって。珠世達を助けて欲しいって」
母の話が意外だった。そんな夢の話? 日高さんが嘘を吐いているかも知れないでしょ?
私は急に腹が立ってきた。男の人が女を落とすために使う常套句に母は嵌められてしまっていると思ったからだ。
「そんな、夢の話を信じちゃうの?」
思わずテーブルを叩いていた。しかし、母はそんな私の反応すら予想していたのか、全く驚いていなかった。
「確かに貴女の言う通りね。そんな話、作り話かも知れない。でもね、母さんの夢枕にも父さんが立ったのよ。日高が会いたがっているよって」
ええ? ダブル夢枕? 父さん、頑張り過ぎ……。
「それもたかが夢よね。でもね、そうは思わなかったの。これは父さんが引き合わせてくれたんだって」
母の目には涙が光っている。父絡みだと母はすぐに泣く。私もそうだけど。
「だから、これから先の事は考えない事にして、日高さんとは会う事にしたの。それを貴女や武彦が快く思わないのはわかる」
母は私を説得しようとしていた。でも、そんな必要はない。私は手でそれを制した。
「もういいわ。母さんの考えはよくわかった。でもね、母さんは私と武彦の事を全然わかっていない」
母はキョトンとしている。私も目に涙を溜めながら、
「私や武彦の思いより、母さんの思い優先よ。母さんが思うようにして。それについては、私も武彦も異論はないわ」
「美鈴……」
母の目からポロポロと涙が零れ落ちたのを見て、私の涙腺も決壊した。
「父さんが二人を再会させたのなら、もう私にも武彦にも反対する理由はないわ、母さん」
私達は抱き合って泣いた。
憲太郎君が帰って来て声をかけられるまで……。