その二百四
僕は磐神武彦。もうすぐ大学三年。
幼馴染みで彼女でもある都坂亜希ちゃんとは順調。
姉とはちょっとした行き違いがあったけど、今では完全修復し、今度こそ亜希ちゃんと揃って行けた。
「お邪魔じゃなかった、武彦?」
帰りがけに亜希ちゃんにそう言われてギクッとしたが、
「そんな事ないよ。どうして?」
訊き返す強かさを発揮できたのは人間として進歩したと思っていいのだろうか?
「意地悪」
亜希ちゃんはクスッと笑って更にその上を行く返しをして来たので、まだまだだと思ったのも事実だ。
でも、僕達が姉のところに行った時、いるはずだった姉の婚約者の力丸憲太郎さんがいなかったのは意外だった。
「楽しみにしているよ」
電話ではそう言われていたからだ。姉に理由を訊くと、
「取引先から急な呼び出しですって。お父さん絡みらしいから、どうしても断われなかったみたい」
そう言って寂しそうに微笑んだ。姉も、貴重な休みの日なのに憲太郎さんが仕事になってしまったのはショックだったようだ。
だから、さっきの亜希ちゃんの「お邪魔じゃなかった?」につながるのだ。
亜希ちゃんは確実に姉をライバル視している。僕と姉はそんなおかしな関係ではないんだけどね。
「そう言えば、西郷さんのお宅って、ここからすぐなのね」
不意に亜希ちゃんが携帯のナビを操作しながら言った。
「ああ、そうだね。憲太郎さんて、何だかんだっても、お姉さんが好きなんだよね」
すると亜希ちゃんは、
「マンションは憲太郎さんのお父さんが決めたんでしょ? むしろ、お父さんが沙久弥さんと憲太郎さんを気遣ったのかもよ」
腕をギュッと組みながら名推理を展開した。
「そうだね」
僕はそう応じながらも、亜希ちゃんが西郷家に足を向けている事に気づいた。
「あれ、西郷さんのお宅に寄るの?」
「こんな近くまで来ていて、立ち寄らない方が失礼でしょ? それに武彦だって、沙久弥さんに会いたいでしょ?」
亜希ちゃんはニヤリとして言う。僕はたじろぎそうになりながらも、
「亜希こそ、隆久君に会いたくて仕方がないんだよね?」
ちょっと仕返しのつもりでそう言ったのだが、
「ち、違うわよ、そんな事ないわよ」
妙に亜希ちゃんが動揺したので、面食らってしまった。亜希ちゃん、僕の想像以上に赤ちゃんが好きなのかも知れない。
男の赤ちゃん限定だとちょっと語弊があるかも。
五分ほどして、僕達は西郷邸の前に着いた。
力丸邸に行くのは緊張しなくなったけど、西郷邸は何度来てもその門構えに緊張する。
「あら、いらっしゃい、武彦君、亜希さん」
門扉を開けようとしたら、中から長女の恵さんが出て来た。
という事は?
隣の亜希ちゃんの顔が引きつるのがわかった。
「武彦お兄ちゃん、いらっしゃい!」
予想通り、恵さんの長女の莉子ちゃんが出て来た。偶然とは思えないこの対面。亜希ちゃんはますます顔を強張らせている。
「こ、こんにちは、莉子ちゃん。久しぶりだね」
僕が苦笑いして応じた。
「会いたかったよお、武彦お兄ちゃん」
莉子ちゃんが抱きついて来た。亜希ちゃんがピクンとしたのがわかる。
「こら、莉子、失礼な事しないの! 家に入ってなさい」
恵さんがすかさず窘めてくれた。
「はあい」
莉子ちゃんはペロッと舌を出して肩を竦めると、
「じゃあね、武彦お兄ちゃん」
そう言って玄関へと駆けて行く。
「ごめんなさいね、躾けが行き届いていなくて。あの子、亜希さんに挨拶しなくて……」
恵さんは亜希ちゃんに頭を下げた。すると亜希ちゃんは、
「仕方ないですよ、私は莉子ちゃんのライバルなんですから」
とても大人な対応をした。かっこいい、亜希ちゃん! 惚れ直してしまった。
「ありがとう、亜希さん。さあ、入って」
恵さんは苦笑いをしながら玄関へと先導してくれた。
「あの二人は部屋に閉じ込めておきますから、沙っちゃんとゆっくり話してくださいね」
恵さんは前回莉子ちゃんと次女の真子ちゃんが亜希ちゃんにライバル意識剥き出しで挑んできたのをとても怒っていた。
だから今度は接触すらさせないつもりらしい。何となく可哀想な気もするが、そんな事を口にすれば、亜希ちゃんに申し訳ないので、何も言わずに沙久弥さんと隆久君がいる部屋に行った。
「お母さん、もうしないから出して!」
邸の廊下の突き当たりにある納戸の中に莉子ちゃんと真子ちゃんは入れられ、外からつっかえ棒をされた。
「ダメです。貴女達にはもう少し我慢というものを知ってもらう必要があります」
恵さんはまさにけんもほろろに却下していた。
「いらっしゃい、武彦君、亜希さん。今日は憲太郎と美鈴さんのマンションに行ったのね?」
スヤスヤ眠っている隆久君を抱いた沙久弥さんに出迎えられた。もうすっかりお母さんの顔になっている。
でも、相変わらずザ・美少女の容姿は健在だ。
「美鈴さんから電話があったの。あなた達が歩いて行く方向が駅とは違っていたので、ここに向かったのではないかとね」
沙久弥さんはニコッとして僕を見た。穴があったら入りたい。本当に目敏い姉だ。恥ずかしい。
「美鈴さんはいつも武彦を見守ってくれているのね」
亜希ちゃんが嫌な事を言った。
「そうみたいね」
沙久弥さんまで賛同したので、僕は切なくなってしまった。
「あ」
不意に隆久君が目を開いた。彼はジッと亜希ちゃんを見つめた。亜希ちゃんは何故か照れ臭そうに僕に微笑む。
次の瞬間、いきなり隆久君が泣き出した。僕と亜希ちゃんはびっくりして思わず互いにすがりついてしまった。
「お腹が空いたのね、隆久」
沙久弥さんが天使のような笑顔で言うと、予告なしで突然おっぱいを出した。
「わわ!」
僕は慌てて背中を向けた。でも、見えちゃった。沙久弥さん、大きかった……。亜希ちゃん、ごめん。
「あら、武彦君、見ててもいいのよ」
沙久弥さんはとんでもない事を言った。先日は中学の同級生の須佐(旧姓:櫛名田)姫乃さんの授乳を見てしまい、今日は沙久弥さん。
この分でいくと、姉の授乳なんて、毎日見てしまいそうで怖い。機嫌が悪い時は殴られそうだし。
「授乳は神聖な行為なのだから、目を背けられる方が切ないものよ」
沙久弥さんはそう言って見るように言うのだが、自分の心と亜希ちゃんの存在がそれを許さなかった。
結局、部屋にいる間中、沙久弥さんは授乳をしていたので、僕は背中を向けたままで会話をした。
それにしても隆久君、すごい食欲(?)だなあ。
「張りはあるのに出が悪いのよね」
沙久弥さんのその言葉に余計ドキドキしてしまった。何を考えているんだ、僕は?
「私も早く赤ちゃん欲しくなった」
西郷家を出てすぐに亜希ちゃんが呟いた。
「そう?」
僕はどう対応しようか迷ったので、それだけ言った。
「そうしないと、武彦を他の誰かに盗られそうなんだもん」
亜希ちゃんは恥ずかしそうに微笑み、そんな嬉しいようなくすぐったいような事を言ってくれた。
「大丈夫だよ、亜希。僕は亜希に見捨てられても、ずっと亜希の事を好きだから」
思い切って気障な事を言ったら、
「私が武彦を見捨てる訳ないでしょ?」
そう返され、不意打ちのキスをされた。
ああ、亜希ちゃん、可愛過ぎてもう……。バカな僕……。




