その二百三
僕は磐神武彦。もうすぐ大学三年。
先日、彼女の都坂亜希ちゃんと一緒に姉が婚約者の力丸憲太郎さんと暮らしているマンションに行く事になった。
ところが、当日になって、亜希ちゃんがインフルエンザに罹っているのがわかり、僕だけで行く事になった。
「心配だけど、我慢するね」
亜希ちゃんからの謎のメールに首を傾げながら、僕は姉がいるマンションに行った。
もうすぐ着くというところで、亜希ちゃんが来られなくなったと伝えるのを忘れていたのに気づき、慌ててメールした。
エレベーターを降りたところで、姉の親友である藤原美智子さんと会った。
「今日は、武彦君。ごゆっくり」
藤原さんにも謎の言葉を言われた。どういう事かな?
出迎えてくれた姉は妙なテンションだった。
「よく来た、武! 今日は泊まってくか?」
どうしてそういう話になるのかよくわからなかったが、姉と憲太郎さんで暮らしているところにズケズケと泊まってしまうほど僕も鈍感な人間ではない。
「だ、ダメだよ、泊まれないよ!」
そう言い返した時、何故か姉は悲しそうな顔になった。いや、そう見えた。
それは多分、僕が「お姉さん大好きな弟」だからなのだろう。
僕は長々といるのも悪いと思い、すぐに帰る事にした。
「何だよ、もう帰るのか?」
姉は口を尖らせて不満そうに言う。それを見てキュンとしてしまった。ああ、亜希ちゃん、ごめん……。
「だって、姉ちゃんは憲太郎さんと新婚気分なんでしょ? 邪魔しちゃ悪いから、もう帰るよ」
僕はドキドキしながらそう言った。姉は真顔になり、
「そうか。わかった」
冷たい口調で言った。いや、それは思い過ごしなんかじゃない。本当に姉はムッとしていたのだ。
まずいと思ったが、もう遅かった。僕は玄関を追い出されるように出た。
ガチャッとロックをする音が聞こえた。拒否された気分だった。
言い訳しようと思ったが、そんな事をするともっと怒るのが姉だから、僕は何も言わずにエレベーターに向かった。
僕はそのままバイト先であるコンビニに向かった。今日は遅番だから、そんなに早く行く必要はないのだが、何かしていないと姉の事ばかり考えてしまいそうなので、そうしたのだ。
「磐神先輩、早いですね? 今日は会えないかと思っていたのですが」
経済学部の二年になる長須根美歌さんが笑顔で迎えてくれた。
こんな沈んだ気持ちの時には、彼女の笑顔とあの独特なイントネーションのおっとり口調を聞くと癒される。
ああ、またごめん、亜希ちゃん……。
「どうしたんですか、先輩?」
長須根さんは僕が俯いてばかりいるので尋ねて来た。僕は弱々しく微笑み、
「何でもないよ。ちょっと疲れただけだよ」
ところが長須根さんは、
「先輩は何かある時は必ずそう言って誤魔化すって都坂先輩に聞きましたよ。何かあったのですね?」
鋭い突っ込みを入れて来た。まさか亜希ちゃんがそんな事を長須根さんに教えていたなんて……。
僕は降参して、恥ずかしかったけど、長須根さんに理由を話した。
笑われるかと思ったが、長須根さんの反応は違っていた。
「兄ちゃが彼女と付き合っていて、一緒に暮らし始めた時、同じ事がありました。私も先輩と同じで、お邪魔だと思って、遠慮して帰った事があるんです」
お兄さんの話をする時、長須根さんは決まって目をウルウルさせる。他の男だったら、もう瞬殺されるくらい可愛いと思う。
でも「兄ちゃに似ているんです」と言われてしまった僕には、長須根さんは妹以外には見えなくなっているので、そんな感情はわかない。
決して、亜希ちゃんが怖いからではない。ああ、またしてもごめん、亜希ちゃん。
「その時、兄ちゃはすごく寂しそうにしていました。私、悪い事をしたと思ったのですが、すぐには謝れなくて、しばらくしてから謝ろうと思ったら、兄ちゃに逆に謝られたんです」
長須根さんはポロッと涙を一粒右目から零して言った。端から見ると、僕が泣かしているようでちょっと困る。
「お前が気を遣って言ってくれたのに俺は自分の感情だけで反応してしまってすまなかったって……」
いいお兄さんだ。長須根さんはそこまで言うと声をあげて泣き出してしまった。
「どうしたんだ?」
店長と一年先輩の神谷さんが声を聞きつけて事務室に来た。
「何でもないんです。ごめんなさい」
泣きながら謝る長須根さんとバツが悪そうに立っている僕。どう見ても僕が彼女を泣かした図にしか見えなかった。
まあ、店長と神谷さんは僕と長須根さんの関係を知っているからそうは思わなかったけど。
「ありがとう、長須根さん。姉に謝るよ」
僕も泣きそうになっているのに気づき、涙を堪えて応じた。
バイトが終わり、駅へと向かう途中で僕は姉の携帯に電話した。
「はい」
何故か弾んだ声で姉が応えた。え?
「あ、姉ちゃん、昼間はごめん。僕の言葉が足りなくて、姉ちゃんを傷つけたような気がして……」
僕は畳みかけるように一気に言い切った。すると姉が、
「そんな事ないよ、武彦。姉ちゃんこそ、ごめん。お前が気を遣って帰ろうとしたのに嫌な顔をして追い出すようにしてさ……」
そうか。姉も謝ろうと思っていたのか。だから僕からの着信を見て、声が弾んだんだ。
「それで、いつだったら、泊まりに来られる?」
そんな続きがあるとは思わなかったので、つい返事に困ってしまった。
「おい、さっきのは上辺だけの謝罪だったのか?」
今度は怒りの炎が感じられるようなドスの利いた声が聞こえた。うわ、まずい。
「こ、今度の日曜日に亜希ちゃんと行くよ!」
それだけ言うと、慌てて通話を切った。
ああ。あれだけ長く一緒にいて、未だに姉の機嫌の変わり目がわからない……。