その百九十七
僕は磐神武彦。大学二年ももうすぐ後期が終了する。
先日、姉が家を出た。飛び出した訳ではない。
婚約者である力丸憲太郎さん次のオリンピック出場を懸けて、アパートに同居し、健康と栄養の管理をする事になったのだ。
もちろん、憲太郎さんが所属する柔道チームにも、専属のトレーナーや栄養士の人がいる。
姉のするのは、あくまで家の中における健康と栄養の管理である。
「今生の別れじゃないんだから、そんな顔して見ないでよ」
アパートに行く姉を母と贈り出した時、潤んだ目の姉にそう言われた。
「え?」
僕は普通の顔をしているつもりだったのだが、今にも泣き出しそうだったようだ。
「あんた達、これを良い機会にして、少しは互いへの依存度を下げなさいよ」
母に真顔でそう言われて、僕は思わず赤面して姉を見た。姉も赤面していたので、ちょっとだけホッとした。
こういう感覚がいけないのだろうか?
「母さんこそ、私がいなくなったのを切欠にして、日高さんと頻繁に会ったりしないでよ」
姉が仕返しとばかりにそう言った。
「ば、バカな事言うんじゃないわよ!」
母が本気で怒り出しそうになったので、僕は二人の間に入った。
「まあまあ……」
母の反応が強かったので、姉は、
「母さん、結構本気かも知れないから、何かあったら連絡して」
小声で言って来た。
「もちろんだよ」
日高さんとは、亡くなった父の親友で、高校時代、母を射止めようと競った恋のライバルでもあった。
その件に関しては、母は全力否定だけど。
姉が見えなくなった時、
「武彦は大学を卒業したら、どうするの?」
不意に母が玄関に戻りながら尋ねて来た。僕はビクッとして立ち止まった。
今、彼女の都坂亜希ちゃんと行っているのは、彼女の将来の希望を叶えるための福祉系の大学だが、単位の取り方によっては、公務員にもなれるし、法学関係の仕事もできなくはない。
僕は小さい頃、漠然とではあったが、父が学校の先生だったのを知って、先生になろうと思った時期があった。
だが、中学高校と年を経るに従って、その気持ちはいつの間にか消えてしまっていた。
授業についていけなくなり、成績が良くないとなれない学校の先生は、僕の頭から追い出されてしまったのだろう。
「小さい頃は、父さんと同じ学校の先生になるって言ってたっけ」
僕が黙り込んだのに気づき、母はクスッと笑って振り返った。
「そんな時もあったね」
「今はどうなの?」
また真顔の母。僕は再び言葉に詰まった。
僕は亜希ちゃんと同じ大学に入る事ばかり考えて受験し、入学してからは、毎日が新しい驚きの連続で、就職なんてまだ先だと思っていた。
しかし、現実に大学に入って二回目の新年を迎えた今、そんな悠長な考えは改めないといけないのに気づかされた。
「父さんには悪いけど、武彦には学校の先生にはなって欲しくないかな。あの当時でさえ、今で言うモンスターペアレントみたいな保護者がいたのよ。父さん、身体の疲れより、心の疲れの方が酷かった気がする」
しんみりした顔で母が言う。父は確か、小学校の先生だった。それも高学年。僕にはとても無理そうだ。
「それでもお前が希望するなら止めないけど、できれば選択しないで欲しいよ、学校の先生は。そんな事を言うと、怒られるかも知れないけど」
母は玄関のドアを引き開け、中に入った。僕は慌ててドアに手をかけて続けて中に入った。
「さて、母さんももう行かなくちゃ。戸締まり、お願いね」
母は凄い早さで着替えを終え、出かけて行った。
僕は火の元と戸締まりを二度確認してから、家を出た。
ふと昨夜の事を思い出す。母がいたので必死に頭から追い出していたのだが、昨夜の姉の行動は誰にも言えない。
母にも言えないし、亜希ちゃんにも言えない。
何しろ、弟の僕のベッドに入って来て、僕を抱きしめて寝たのだから。
姉は寝息を立てていたので、眠れたのだろうが、僕は実は一睡もしてない。
今日一日、大丈夫だろうか? 大学はともかく、バイト先で寝たりしたら申し訳ない。
眠気覚ましのドリンクを飲んで、気合いで乗り切るしかないだろう。
「おはよう、武彦」
亜希ちゃんが門の前で待っていたので、びっくりしてしまった。
「お、おはよう」
僕はつい苦笑いしてしまった。亜希ちゃんは首を傾げて、
「武彦、眠そうね? 夕べ、寝られなかったの?」
「え?」
いきなり核心を突く質問を放ってきた亜希ちゃんに僕は心臓が止まりそうになった。
相変わらず勘が鋭過ぎる。
「美鈴さん、今日で家を出たんでしょ? 武彦の事だから、ショックを受けているんじゃないかなあって」
亜希ちゃんは何故か照れ臭そうにそう言った。どういう事?
「その分は私が埋めるから。できないかも知れないけど、頑張るから」
どんどん顔が赤くなっていく亜希ちゃん。なるほど、そういう事か。
「ありがとう、亜希」
こういう時だ。ある事を思い出した。僕は亜希ちゃんを引き寄せて門の陰に立ち、キスをした。
「武彦」
亜希ちゃんは嬉しそうに僕を見つめ、キスを返して来た。
「必ず埋めるから。そして、いつか、武彦の心を私でいっぱいにする」
「亜希」
僕達はもう一度キスをした。姉の開けた穴、亜希ちゃんが塞いでくれるのもそう遠い未来ではないかも知れない。