その百九十六
僕は磐神武彦。大学二年。
年末年始の休みに入り、後は学年末試験を残すのみとなった。
去年なら、その事でアタフタし、彼女の都坂亜希ちゃんと勉強していただろうが、今年は違う。
決して、大学の講義内容を甘く見ている訳ではない。試験に自信がある訳でもない。
年が明けて、休暇が終わると、姉が家を出て、婚約者である力丸憲太郎さんと暮らし始めるからだ。
結局、僕は去年もシスコンを脱出する事ができなかった。
今更ながら、自分が筋金入りの「お姉さん大好きな弟」だと思い知ってしまった。
そんな事が頭に残っていたせいで、
「一緒に初詣に行こう」
姉の誘いを断わった。
「ごめん、今年は亜希ちゃんと二人きりで行きたいから」
僕は心にもない事を言ってしまったのだ。
「そうか。そうだよな。うん、その方がいい」
姉が悲しそうな顔をしていたような気がしてしまうほど、僕は自分の言った事を後悔していた。
まだ夜明け前だったが、亜希ちゃんを迎えに行った。
「明けましておめでとう、武彦」
すると、きらびやかという表現が一番ピッタリな晴れ着で亜希ちゃんが玄関から出て来た。
「おめでとう、亜希」
僕らは微笑み合って手を繋ぎ、近所の神社へと歩き出した。
「美鈴さんは?」
亜希ちゃんがいきなり核心を突く質問をして来た。もちろん、亜希ちゃんの質問は何の他意もない。
今まで常に一緒だった姉がいない事に違和感を覚えただけだろう。
「姫ちゃんは、やっぱり無理らしいの。残念だけど、仕方ないよね」
亜希ちゃんは親友の須佐(旧姓:櫛名田)姫乃さんが初詣に行けないのを寂しがった。
姫乃さんは、今月の二十三日が出産予定日だそうだ。
通常の生活には何も支障がないらしいんだけど、人混みの中を歩くのは危険だという事で、ご両親と夫の須佐昇君が反対したそうだ。本人は行く気だったらしいんだけど、泣いて止める須佐君を見て、姫乃さんが折れたのだそうだ。
それはそうだろう。新しい命を宿している姫乃さんに何かあったらと思うと、止めるしかない。
僕が須佐君の立場でも、反対する。
「武彦も須佐君と同じ?」
急に亜希ちゃんが言った。僕は、
「え?」
間抜けな顔で亜希ちゃんを見た。亜希ちゃんは何故か俯いて、
「私が妊娠していたら、初詣には行かせない?」
「え?」
亜希ちゃんのその質問に僕は心臓が吹き飛びそうなくらい驚いた。
「うん、行かせないよ。心配だもん」
僕も恥ずかしくなってしまい、俯いて応じた。
「ありがとう、武彦」
亜希ちゃんは嬉しそうに僕を見つめて目を瞑った。周囲を見渡すと、誰もいない。
僕達は薄暗がりの中で新年初のキスをした。
しばらく歩いて行くと、次第に空が明るくなってきて、歩いている人の姿も多くなって来た。
すでに神社の参道に入っているので、晴れ着姿の女性が多くなる。
「亜希!」
するとそこへ、亜希ちゃんの高校時代の友人の伊佐奈美さん、富谷麻穂さん、天野小梅さんが現れた。
三人共晴れ着を着ており、眩しい感じがする。富谷さんは結婚して、すでに名字が変わっているはずだが、僕は聞いていないのでわからない。
それぞれ挨拶をすませ、再び神社へと歩き出した。
「久しぶり、磐神君。お預けは終わった?」
いきなり伊佐さんが言った。お預け? 何の事?
「やめてよ、奈美ちゃんたら!」
亜希ちゃんが顔を赤くして伊佐さんを睨んだ。どういう事?
「って事は、まだ記録更新中なんだ」
天野さんがニヤリとして亜希ちゃんの顔を覗き込む。
ますます意味がわからない。亜希ちゃんは爆発しそうなくらい赤くなっていた。
「奈美ちゃんと小梅ちゃんこそ、どうなのよ?」
亜希ちゃんは赤くなった顔を手で扇ぎながら尋ね返した。
「え? あ、いや、そのね……」
天野さんは相変わらずのアニメ声で笑って誤魔化そうとしている。
「私はさ、皆と違って、彼はできたばっかだから」
そう言った伊佐さんは突然富谷さんを見て、
「そう言えばさ、麻穂はいつが出産予定日だっけ?」
いきなり話題を変更した。よほど触れられたくない事だったのだろうか?
「五月だよ。だからまだほとんどわからないでしょ?」
富谷さんは妊娠していた。まだ安定期に入ったばかりらしい。
「麻穂は母乳の心配がなくていいよね。いくらでも出そうな感じだもん」
天野さんがケラケラ笑って凄い事を言った。富谷さんは母になる余裕なのか、ニコニコして、
「母乳の出は、大きさでは決まらないらしいよ」
「へえ、そうなんだ。良かったね、小梅」
伊佐さんがニヤッとして天野さんの胸を見た。天野さんは胸の辺りを両手で隠して、
「余計なお世話よ、もう!」
富谷さんの旦那さんは年末年始は仕事だそうだ。
「そういうのを承知で結婚したんだから、休みが合わないくらいで喧嘩はしないわ」
何だか、富谷さん、僕らよりずっと大人になった気がする。
「私の彼は、トラックドライバーで、今が一番忙しいらしいんだ。寂しいけど、毎日メールで話してる」
天野さんはヘラヘラして携帯の待ち受けにしている彼氏の写真を見せてくれた。
「わあ、芸能人みたいな顔ね」
亜希ちゃんが目を見開いて言った。その反応にちょっとだけ嫉妬してしまう人間として小さい僕。
「運転手しながら、舞台俳優目指してるの」
天野さんが嬉しそうに言う。そうか。天野さんも声優目指してるんだよね。そういうつながりなのかな?
「仕事なら仕方ないけど、私の彼は友達とスキーだよ。信じられないでしょ?」
伊佐さんはプウッとほっぺを膨らませて言った。高校時代、そんな顔をした事がなかった彼女が女の子っぽい顔をすると、何となく可愛いと思えてしまう。
「いた!」
その僕の反応に気づいた亜希ちゃんに腕を抓られた。
ワイワイガヤガヤとしながら、神社に着いた僕達は、お参りをすませて、帰りにお決まりのファミレスであるドコスに寄った。
「亜希、お互い、隠し事はなしね。お預けがすんだら、報告し合おうね」
伊佐さんが亜希ちゃんに囁いているのが聞こえてしまった。
「え、そんな事、したくないよ」
亜希ちゃんがまた顔を赤らめて応じたので、何となくわかった。そういう事か。
しばらくお喋りした後、解散となった。
「武彦、訊きたい事があるんだけど?」
亜希ちゃんは細い路地に入って誰もいないのを確認して言った。
「え? 何?」
何を訊かれるのか何となくわかったが、惚けた。すると亜希ちゃんはしばらく僕を見つめてから、
「やっぱりいい!」
そう言うと、僕の手を掴み、スタスタと歩き始めた。着物なのにその歩幅はまずいと思ったが、言えなかった。
家に帰ると、まだ姉は帰って来ていなかった。
母の話によると、力丸家と西郷家に挨拶回りもして来るらしい。
「明日から新生活だから、今日しかないんだって。何もそんなに急ぐ事ないのにね」
母は姉が家を出る事に対してそれほど思う事はないようだ。いつもと同じように微笑んで話している。
「そうだね」
僕はその話がつらくて、部屋に上がってしまった。
姉は夜遅くまで帰って来なかった。
僕は顔を合わせないままの方が気が楽だと思い、明日はバイトを早朝から入れている。
だから、姉を待つ事なく、就寝した。
うとうとした頃、ドアがノックされた。
「はい?」
寝ぼけ眼で返事をすると、枕を抱きかかえたパジャマ姿の姉が入って来た。
「な、何、姉ちゃん?」
僕は眠気が吹き飛んだ。どういう事? 何のつもり?
「昔はよく一緒に寝ただろ? 明日で姉ちゃん、この家を出るから、今夜は武と一緒に寝させて」
潤んだ目でそんな事を言われてしまった。
「あ、うん」
承知するしかない。姉はゴソゴソとベッドに入って来た。
「枕が変わると寝つけないんだ」
苦笑いして自分の枕を置き、横になる姉。体温が伝わって来て、鼓動が速くなる。
「小さい頃は、泣き虫なお前を抱きしめて眠ったよな」
姉はそう言うと僕に抱きついて来た。
「姉ちゃん……」
僕は泣いてしまった。姉が明日家を出るのだと思うと。そして、昔姉とこうして寝た事があるのを思い出したので。
「武……」
姉も声を出さずに泣いていた。
姉ちゃん……。