その百九十三
僕は磐神武彦。大学二年。
先日、姉が婚約者の力丸憲太郎さんに呼び出された。
婚約破棄でも言い渡されるのかとドキドキしていたが、どうやらそうではないらしかった。
待ち合わせのレストランには、何故か憲太郎さんのお姉さんである沙久弥さんも待っていたそうだ。
以前の姉なら、緊張しまくってしまったろうが、もうそんな事はない。
でも、どうも気になる。
それ以来、僕は姉に避けられているような気がしている。
朝、洗面所で鉢合わせしそうになっても、
「あ、ごめん」
素っ気ない態度で目も合わせようとしない。
朝食も母が早番の時は一緒に摂り、そうでない時も一人で早く食べ終えてしまい、僕がキッチンに行く頃には出かけている。
気になったので訊きたいのだが、とにかく姉は僕と顔を合わせてくれない。
すごく悲しくなった。僕は一体何をしたのだろう?
姉にそんなに嫌われる事をしてしまったのだろうか?
悩んだ末、母に相談した。
「考え過ぎよ。別に美鈴は貴方の事を避けてなんかいないわよ」
母は僕が過敏過ぎると言う。
「もういい加減、卒業しなさいよ、美鈴から」
そんな事まで言われてしまった。そうなのだろうか? 僕の考え過ぎ、過敏過ぎなのだろうか?
その感情が顔に出てしまっていたらしく、彼女の都坂亜希ちゃんに、
「どうしたの、武彦? 具合でも悪いの?」
心配されてしまった。他の事なら亜希ちゃんに一番に相談するけど、姉との事だけは、相談できない。
「うん。ちょっと風邪気味で……」
何でもないと言うと追及されるので、僕は具合が悪いフリをした。その方が疑われずにすむからだ。
ごめん、亜希ちゃん。
心の中で詫びた。
具合が悪いフリをしてしまった都合上、その日一日僕は俯いて過ごさなければならなかった。
一番のピンチは、帰りに駅に向かう時だった。
「バイトは休んで、一緒に帰ろう、武彦」
ずっと気遣ってくれた亜希ちゃんに対して、罪悪感で押し潰されそうになりながらも、僕は、
「引き継ぎがあるから、顔だけ出して帰るよ。途中に病院もあるから、そこに寄るようにする」
亜希ちゃんにそんなにいろいろ嘘を吐いたのは初めてだった。
一つ嘘を吐くと、それを誤魔化すためにどんどん嘘を積み重ねてしまう。
そういう話を聞いた事がある。今の僕がまさにそれだった。
亜希ちゃんに最初から本当の事を言っていれば、ここまで苦しい思いをする事もなかったのだ。
「そう。わかった。無理しないでね」
目を潤ませている亜希ちゃん。僕の事をすごく心配してくれているのがわかり、つらくて泣きそうになった。
僕は亜希ちゃんと別れて違うホームに行く途中で憲太郎さんに電話をした。
憲太郎さんなら、何か知っていると思ったからだ。
「どうしたの、武彦君? 何かあったのかい?」
憲太郎さんは僕の声の調子で察したらしく、そう尋ねて来た。
僕は姉の様子がおかしい事を憲太郎さんに話し、何か知らないか尋ねた。
「そうか。美鈴、やっぱり悩んでいるんだね」
憲太郎さんの反応は意外だった。そして、姉の様子がおかしい理由を話してくれた。
沙久弥さんの提案で、憲太郎さんと同居して、次のオリンピックに向けての栄養管理を二人で協力して徹底する事になったのだそうだ。
「僕はそうしてもらえると助かると思っているんだけど、美鈴は何だか無理しているように見えたんだ。そのせいじゃないかな?」
憲太郎さんはその後いろいろ説明してくれたんだけど、僕の耳には入っていたのだろうが、聞こえていなかった。
姉が家を出て、憲太郎さんと暮らす?
姉が家からいなくなる? 想像もつかない。
生まれてからずっと、旅行などで何泊かお互いに会わなかった事はあっても、何ヶ月、いや、何年も離れて暮らすなんてなかった。
憲太郎さんの話を聞いて、僕は全然姉離れできていない「お姉さん大好きな弟」だと思い知らされた。
亜希ちゃんがヤキモキするはずだ。僕は姉と別々に暮らす事に動揺している。どうしようもない弟だ。
あれ? だとすれば、姉が僕と目を合わせないようにしている理由も同じなのだろうか?
僕と離れて暮らす事に動揺している? だから僕の顔を見られない?
自分に都合のいい解釈かも知れないが、そう思えた。
僕は本当に具合が悪くなってきた。
憲太郎さんとの通話を終えると、僕は店長に連絡し、休ませてもらった。
そして、亜希ちゃんに言った通り、途中にある病院に寄り、診察してもらった。
急性胃炎と診断された。それもちょっとびっくりだったけど。
僕は項垂れたまま、帰宅した。
いつもより早かったので、家には誰もいない。玄関の鍵を開けて中に入ると、亜希ちゃんから連絡が入った。
「今、帰るのが見えたから。つらそうだったけど、大丈夫?」
亜希ちゃんの優しい言葉に僕は泣き出してしまった。
驚いた亜希ちゃんは、すぐに家まで走って来てくれた。
「何があったの、武彦?」
僕は亜希ちゃんに嘘を吐いていた事を詫び、憲太郎さんから聞いた事を話した。
亜希ちゃんも驚いていた。
「そうなんだ。それはびっくりするよね」
そのまま二人で部屋まで行った。涙が止まらなくなった僕を亜希ちゃんは抱きしめて慰めてくれた。
「ずっと一緒に暮らしてきたんだものね。ショックだよね。いいよ、気のすむまで泣いて」
亜希ちゃんも涙声になっていた。
二人で泣いた。
「武彦」
亜希ちゃんが不意に僕の顔を見た。僕も亜希ちゃんの顔を見た。
お互いを抱きしめ、キスした。長い長いキスだった。
どれほど相手を好きなのか、どれほど相手を思っているのかを伝え合うようなキスだった。
「ありがとう、亜希」
僕はキスを終えると、もう一度亜希ちゃんを抱きしめた。
「武彦」
亜希ちゃんも抱きしめ返して来た。
「美鈴さんには美鈴さんの人生と考えがあるわ。だから、私達はそれを応援しましょうよ。武彦の心の中の美鈴さんの分を私が埋めるから。無理かも知れないけど、できる限り埋めるから」
亜希ちゃんは潤んだ目で僕を見つめてそう言ってくれた。
「うん」
僕も目を潤ませて頷き、もう一度キスをした。
やがて、母が帰って来たので、亜希ちゃんは家に帰って行った。
「あらあら、お邪魔様ね」
何も知らない母はそう言って戯けたが、僕の反応が薄いので妙に思ったようだ。
「何があったの?」
僕はどうしようか迷ったのだが、憲太郎さんから聞いた話を母にした。
「ああ、その事。美鈴は貴方には話さなかったの?」
母は意外そうに目を見開いた。僕も驚いた。姉は母にだけ話していたのだ。
「どっちもどっちね。あなた達、いい加減お互いに距離をとりなさいよ。これからの人生に支障が出るわよ」
母に真顔でそう言われるととても恥ずかしくなった。
「まあ、仲がいいのは悪い事ではないから、無理にとは言わないけどね」
母は微笑んでそう言い添えると、自分の部屋に行ってしまった。
その日、姉は帰るのが遅かった。
翌日も早番の母が寝てしまった頃、ようやく帰って来た。
僕は自分の部屋で寝ないで姉が上がって来るのを待っていた。
「姉ちゃん」
部屋の前を通った時を狙って、ドアを開いた。
「びっくりさせないでよ、もう」
姉は幽霊にでも会ったような目で僕を見た。いつもだったら、殴られているのに今日はそれがない。
「憲太郎さんと母さんに聞いたよ。家を出るの?」
僕の問いかけに姉は固まってしまった。そんな事を訊かれるとは思っていなかったのだ。
「どうして僕には話してくれなかったのさ? そんなに僕の事が嫌いなの?」
僕は泣きそうになるのを我慢して言った。すると姉は、
「そんな訳ないだろ! お前に話すのがつらいから、言えなかったんだよ、バカ!」
泣きながら答えてくれた。僕は酷い事をしてしまったと気づいた。姉だって苦しんでいたんだ。
一方的な感情で言葉を叩きつけてしまった事を反省した。
「でも、あんたに話さなかったのは悪かった。ごめん」
姉は俯いて言ってくれた。僕も、
「僕の方こそ、姉ちゃんの気持ちも考えないで、ごめん」
僕と姉は無言のまま抱き合った。そして、泣いた。
姉ちゃん、行かないで。そう言いそうになるのを堪え、泣いた。